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「布施と托鉢の始まり」について

一時、大盛り上がりしていた統一教会を始めとして、宗教教団を運営していくためには布施が重要なのだろうということは、理解していた。

同時に、托鉢も同様と思われるが、日本では、托鉢する姿を見かけたことは、まったくない。タイやミャンマーでは今でも、托鉢していると聞いたことがある。

仏伝には、菩提樹も下で悟りを得た後の釈迦の様子を描いたエピソードがある。それが、「布施」と「托鉢」の起源である、と仏教学者佐々木閑氏はいうのです。

転々 と 場所 を 変え ながら 悟り の 喜び を 一人 で かみしめ て い た 釈迦 の 姿 を、 たまたま 通り かかっ た タプッサ、 バッリカ という二人の商人が遠くから見て、その立派さに心うたれ、お菓子を差し上げるという話。これが仏教史上最初の「お布施」です。(中略)

この二人は食料品の商人だったので、荷物の中のお菓子を釈迦にあげようとした。ところが、このとき釈迦はお皿も何も持っていないから、受け取ろうにも受け取れない。

すると、それを見た天の神様・四天王が宝玉の鉢を持って降りてきて、その鉢で初めて釈迦はお布施を受け取ることができた。

佐々木閑; 宮崎哲弥. ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―(新潮選書) (p.74). 新潮社. Kindle 版.

この仏伝のエピソードは、「誰かが厚意でくれたものを、鉢で受けて食べる」ということを示している。つまり、仏教僧団の経済的な運営基盤は、お布施であることを明確にしている。

自分を救うためにだけに修行に専念している人たちが、もっぱら人様の厚意を頼りにして食っていこうとするのは、随分と手前勝手な話ではある。

こんな虫のいい要求を受け容れてくれるためには、お寺は、必ずある程度栄えている町のそばに存在する必要があった。そして、その結果、町の経済や社会の構造に適合的となった。

仏教 の「 人 から もらっ た もの だけで 生きる」 という方針は、一見、市場経済に反するものに思えますし、サンガ(僧団)をとても脆弱な基盤の上に置いてしまう気もしますが、歴史的事実として、仏教サンガは2500年も続いてきたわけです。

実際、2500年も続いている組織というのは、他にはどこにもありません。それだけに、ここには釈迦の深い洞察が隠されていると考えるべきです。

支援者に完全依存して組織を運営する釈迦の敷いた路線が、どれほど強力なサステナビリティを持っているか、改めて注目する必要があるでしょう。

佐々木閑; 宮崎哲弥. ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す―(新潮選書) (p.77). 新潮社. Kindle 版.

僧侶は、布施として、貨幣をもらうことは禁止されているが、サンガ自体が組織としての基金を保有することは構わないというのです。
【何だか、政府交付金制度に似ているなぁ~】

しかもその基金を運用し、在家に貸付けて、利息を取るというころも奨励されている。さらに、ちゃんと証文も取り、担保も設定して、正当な金融業として営業してもオッケーだ、と佐々木氏はいう。

【これには、ビックリでした。仏教のイメージが、かなり変わりました。そういえば、去年亡くなった創価学会池田会長は、金融部門から、のし上がってきたということを聞いていた。この時は、どういうことかと、ハテナでしたが・・・・】


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