夏目漱石 講演録「私の個人主義」 (大正3年11月25日学習院輔仁会において)
夏目漱石の没年は大正5年ですから、その2年前に学習院で開催された講演の記録が「私の個人主義」となる。
高校時代は、漱石といえば『吾輩は猫である』『坊っちゃん』のイメージが強すぎて、漱石を読んでいると友人には伝えづらかった。
一度だけ、ある友人には、伝えたことがあるが、即座に「おまえ漱石なんか読んでいるのか」と蔑まれた目を向けられことがあった。
柄谷行人が漱石を関する評論を描いて群像文学新人賞を受賞していたのであり、堂々とすべきことであったことを、今にして反省している。
学生を前にして漱石は自身の経験談を語ります。
成行きよっては、学習院の教師となった可能性あったが、漱石の言によれば落第したために、「坊っちゃん」にも書かれている松山に中学に赴任したとある。
松山の中学を1年務めた後は、熊本の高校に移動するのであるが、文部省から見込まれて英国に留学することとなる。この時点ですでに、漱石は才能を評価されていたようです。
英国で鬱状態に悩まされていたことは知られているが、確かに悶々とした様子はうかがえる。だが、留学後1年以上経過したある日に、自己本位という言葉を手にしてから強くなり英国人に対しても何者ぞやという気概が出たと述べている。
ところが、帰国するや否や衣食のために奔走することになり、またまた神経衰弱に陥ってしまう。漱石は「文学論」を著わしているが、彼によれば失敗の亡骸というのです。
だが、自己本位という言葉は依然として威力を保っていたために、自信と安心を得ることができたと言う。続けて、学生に対して下記のように講演する。
学習院の卒業生は権力と金力を用い得る人が大勢いるので、他者がそれぞれの幸福を追求するのを妨害してはならないと漱石は諭す。
漱石の論旨は以下である。
第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない。
第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならない。
第三に自己に金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならない。
もし人格がないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらすと漱石は言う。
現代の政治、経済、検察、警察を眺めてみると、まさに漱石が指摘していることそのものの状態にある。
漱石が解釈する個人主義とは、自分の存在を尊敬すると同時に他の存在を尊敬するという意味である。この解釈はヘーゲルが言う「相互承認」に通底する。
漱石に生きてきた時代は、軍部が跋扈しつつある国家主義であったために、個人主義を唱えるのは困難であったと思う。現に、国家主義者、党派主義者からの批判を受けていたことも記されている。
最後に、漱石は国について辛辣な批判をしています。
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