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永井均著『西田幾多郎』について

永井均氏は、ほとんど解説本を書くことはないが、それでも数少ない中の一つとして、『西田幾多郎 言語、貨幣、時計』があります。

すでに、読書メモとして、一昨年に投稿していますが、今回再読してみて、同感した箇所を追記します。

知識については、西田哲学においては、あるものを知ることは、そのあるものになることである。対象と一体になることだということである。意志についても同様であり、客観的自然と合一することによってのみ実現される、というのである。

釈迦、基督が千歳の後にも万人を動かす力を有するのは、実に彼らの精神が能く客観的であったがゆえである。我なき者即ち自己を滅せる者は最も偉大なる者である。

西田幾多郎著『善の研究』

この論理展開には疑問がある、と永井は述べる。というのは、釈迦やキリストが千年後に、万人の心をゆさぶったとしても、彼らが生きていた時点では、彼らの精神は客観的でなかったのではないか、と言うのです。

これは当然なことと思える。さらに、この論点は西田哲学に対する根本的な疑問に通じている、と永井は主張する。

知覚や知識において客観的(主客合一的)であることと、意志や行為において客観的(主客合一的)であることは、西田に反して、実は根本的に異なるのではあるまいか。

後者においてはにおいては、何が客観的であるかの判定は常に後からしか与えられない。釈迦やキリストの精神が客観的であるとされるのは「千歳の後」の観点からである。

しかし、そのような観点を先取りすることは誰にもできない。凡人のふだんの行為でも、後の観点を先取りすることはできないという点は同じであろう。

永井 均. 西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ
(角川ソフィア文庫) (p.23). 株式会社KADOKAWA.
Kindle 版.

ところが、西田哲学固有の表現である「世界が自覚する時、私が自覚する」については、一見神秘的に聞こえるだろうが、永井は、むしろ自明なこととする。

というのは、「私は、私ではなく世界であることにおいて、私である」ということに過ぎないというのです。

もし私が世界でなかったら、世界には「私」という存在があふれており、その中のどれが、私であるか判断できなくなってしまう。だが、私は、私ではなく世界そのものであるから、私は私でありえるている、というわけである。

「対象物と一体化」するという理念は、ベルクソンの著書にもあるので、違和感はない。

だが、ニーチェが「神が死んだ」として本体を解体し、それを受けた形で、フッサールが現象学的還元で内省を通して信憑を得るというプロセスを経て「主観ー客観」の一致を解明するという手法と比べると、ジャンプしすぎなのではと思ってしまう。

ベルクソンはエラン・ビタール(生命の飛躍)を主要概念としているので、そんなものかと、引き下がるしかないが・・・・

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