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天敵彼女 (52)

 これは、縁さんが小さな頃の話だ。

 朝、両親と一緒に出かける。

 いつもの道を通り、いつもの場所で車が停まる。

 両親と大きな建物に入り、大勢の大人がいる場所を抜け、小さな部屋に向かう。

 母親が大人しくしててねと言い残し去っていく。気が付けば、縁さんはいつも一人ぼっちだったそうだ。

 時には寂しい時もあったが、縁さんは両親を困らせるようなことはなかった。

 周囲の大人達は、最初は縁さんの事をただ見守っているだけだったそうだが、余りに聞き分けが良いのを逆に不憫に思ったようだ。

 いつしか女性社員が交代で縁さんの世話をするようになった。男性社員も、事ある毎に自分を気にかけてくれたそうだ。

 縁さんにとって、会社は家族のようなものだった。

 いつしか縁さんは、社員のアイドルになった。

 気が付けば、いつも縁さんの周りには大人がいた。

 それは、縁さんが幼稚園に入り、小学生になってからもしばらくの間続いた。

「でもね、ある日気づいてしまったのよ。家族のように思っていた社員達が、実は家族ではないという事に……」

 縁さんは、寂し気に微笑んだ。両親が自分に構ってくれない寂しさを埋めてくれていた社員達が、ある日自分に冷たくなってしまったのだそうだ。

 その原因は、一つではない。様々な要素が絡み合っていた。

 そもそも、経営者一族の娘である縁さんは、会社に不満を持つ社員にとっては、疎ましい存在だった。

 それに加え、縁さんが会社に出入りする事で不公平感を煽る部分があった。

 社員の中にも会社に子供を預けたい人がいたからだ。

「結局、私が余りに小さいから、色々不満はあるけれど我慢してくれていたようなの。でも、私が小学生になって、そろそろいいんじゃないかという雰囲気になった。私は、徐々に社員の人達から相手にされなくなっていった」

 縁さんは、会社内の雰囲気がある日変わってしまったことにひどく落ち込んだそうだ。

 気が付けば、あんなに大好きだった会社から縁さんの足は遠のいた。

 それは、多分自然な事だったんだと思う。大人が働く場所に子供が出入りするのは本来良くない事だと思うからだ。

 でも、幼い縁さんの中に少なからず割り切れないものを残したのは間違いない。

 それから縁さんは、大人たちが何をしているのか冷静に観察するようになった。

「でも、私には良く分からなかったの。余りにも複雑すぎて理解が追いつかなかった。私に見えているものは世の中の一部でしかなくて、気付かない所で社員の人達のように迷惑をかけてしまうかもしれない。結局、私に分かったのは一人に出来る事は本当に限られているという事だけ」

 それから縁さんは、自分に与えられた役割を演じる以上の事をしようと思わなくなったそうだ。

 自分のやろうとすることは、他の誰かにとって面白くない事なのかもしれない。

 それでも、何もせずに生きてはいけない。

 それならば、せめて自分の周りの人たちの期待に応えられるようになろうと思ったそうだ。

「でもね、あの頃疑問に思ったことはずっと心の中に残っていた。それで、ずっと考えていたんだと思うの」

 それから縁さんは、俺に質問を投げかけてきた。

 所々良く分からない部分もあったが、俺は必死で答え続けた。

「峻君は、大人をどう思うの?」

「俺には出来ない事が出来る人達です。今回の奏の件でも、父さんも縁さんもすごいなと思ってます」

「そう、そう見えているのね。でも、大人だからって何でも出来る訳じゃないのよ。出来ているように見えるのは、出来る事に集中しているからなの。峻君は、本当に自分に関する事を誰の力も借りずに全てやろうとしたらどうなると思う?」

「……多分、出来ないですね。仕事にしても勉強にしても、何かに集中するためには他の事を誰かに頼まないと出来ないですから……」

「でも、峻君は大人は出来ているように見えていたのよね? それは、どうしてだと思う? 一人ではどうにもならない事なのに、全体としてうまくいっているように見える。誰かが誰が何をするか決めてくれているのかしら?」

「分からないです。でも、全体を見通せる人なんているんですかね? 俺、自分と自分の周りの事だけで精一杯なんで……」

「確かにそうね。一人の人間が全てを把握するのは無理だと思う。それでも、たくさんの人が集まって、それぞれにやるべきことをやっていれば、自分が足りない部分を自然と周りがカバーしてくれるというのが一応の社会の建前にはなっている。でも、それは希望的観測の部分が捨てきれない。世の中は、どこか不安定で時には大きな矛盾をはらんでいる」

 そろそろ縁さんが何を言っているのか分からなくなってきた。

 俺は、とりあえずこれ以上話が脱線しないよう軌道修正することにした。

「すみません。さっきの話は、大人だから何でも出来る訳じゃないって話だった気がするんですが……」

「ああ、そうね。だからね、大人が何でも出来たり、世の中がうまく動いているように見えるのは、偶然が積み重なっただけかもしれないという事。全体が理解できる程同時に沢山の事を考えられる人なんていないし、色々な人の考えている事を共有なんて出来ないでしょう?」

 何とか話を収拾しようとしたつもりだったが、むしろ縁さんワールドがどんどん広がっている気がした。

 この手の話は嫌いではないが、これ以上脱線し続ければ、今日の話をどうまとめればいいのか分からなくなりそうだった。

 俺は、いきなり核心部分に触れることにした。

「それは、どういうことですか? そもそもなんですが、俺が女性にトラウマがあり、奏との関係性に悩んでいる事とどう関係している話なんですか?」

 縁さんは、ハッとした後、俺に微笑みかけた。

 これは、完全に話の趣旨を忘れていたなと思った。

 隣で、奏が微妙な表情を浮かべていた。俺は、更に何か言おうとしたが、縁さんはそれを遮るようにして話し始めた。

「ああ、その話だったわね……峻君は女は天敵だというけれど、男はどうなの? あなたに危害を加えようとするのは常に女で、男はあなたをいつでも守ってくれたの?」

「そ、それは……」

 俺は、言葉に詰まった。

 確かに、うちの事だけを考えれば、毒母は天敵で、父さんは俺の味方だ。

 でも、それを全体に拡大すると訳が分からなくなる。

 浮気は女だけでは出来ない。男もいなければ成立しない。

 そう考えると、男の敵は女だけではなく、女の敵も男だけではない。

 俺の中で、何かが崩れていく感じがした。

 言葉に詰まる俺に、縁さんが言った。

「峻君、世の中はあなたが思っているよりはるかに複雑よ。残念ながら私達には理解できないことばかりなの。人はみんなちっぽけで、全体をカバーするなんて不可能に近いわ。もしかしたら、みんな迷子なのかもしれない。だから、訳も分からないまま何かにすがろうとするんじゃないかしら?」

 俺は、何も言えなくなった。

 毒母は大人で、何もかも分かっていて、その上で俺や父さんを傷付けたのだと思っていた。

 でも、縁さんの言うように、毒母も小さな存在にすぎず、何かにすがらなければ生きていけなかったのだとしたら?

 縁さんの元夫も含め、立派な大人が揃っていて起こった惨状について、それなら説明がつくような気がする。

 だが、それは理屈だ。俺の心の空白は、そんなもので埋められはしない。

 俺は、否定も肯定もしない。でも、理由をこじつけるのはやめようと思った。

 結局、人には分からない事だらけなのだから。

 そう考えると、何故か少し心が軽くなった気がした。

「人に出来る事は限られているの。何かをすれば何かを失う。人はみんな至らなくて、足りないから味方と同時に敵も作る。峻君にとっても、私たちにとっても、何が敵で何が味方かなんて、実は良く分からないのよ。確かに、人生は楽しい事ばかりじゃない。生きていくのは大変だし、世間は厳しい。でも、悪い事ばかりじゃない。峻君にも、奏にも、きっと大切な出会いがある。それを相手の性別だけで否定してしまうのはもったいないと思う。確かに、男女関係には特有の問題もあるけれど、それは峻君と奏がこれからゆっくり考えていけばいいと思う。今、私が言えるのはそれだけかな?」

 俺は、今自分がどんな顔をしているのか良く分からない。

 奏がこちらを見ている気はするが、どんな表情をしているのか見るのが怖かった。

 多分、俺は周りを見る余裕をなくしている。

 とにかく、一人になりたかった。

「ごめんね。私の話は訳が分からないってよく言われるの。それでも、峻君の参考になっていたらいいんだけど……」

 縁さんが俺を気遣ってくれている。

 俺は、ギリギリ言葉を絞り出した。

「いえ、すごく参考になりました。ちょっと一人で考えたいので、すみません。奏もごめんね」

「いいよ。またね」

「うん」

 奏が手を振っている。縁さんは少し心配そうだ。

 俺は、二人をリビングに残し、自分の部屋に向かった。

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