【コラム これからの保育のために】第6回 支配の保育にいたる構造を乗り越える 前編

前回、

>唐辛子で味付けしていたものを砂糖で味付けすれば解決なのではなく、料理そのものを変える必要があるのですね。

と述べました。

子供に対して上手から強い関わりでコントロールするのも、下手から優しい支配をするのも本質的には変わりません。
このパラダイムを転換できなければ、保育は現代で必要とされる専門性に到達できません。

では、この「料理を変える」ためにはどうすればいいのでしょうか。
今回はそこを見ていきます。

◆「しつけ」の価値観を乗り越える

保育者が世間一般でいわれる「しつけ」の価値観で保育をしていたり、「しつけ」として一般の子育てで使われている子供へのアプローチをなぞっていれば専門的な保育になりえません。
なぜなら、しつけの価値観は目的的にも、方法的にも、保育の理念にそぐわないからです。


◆目的的問題


しつけの価値観がもたらす子育て観、保育観は次のようなものです。

あらかじめ設定されている「正しい(とされる)子供像」にあわせるべく、大人が干渉を重ねること

つまりは目の前の子供を型にはめるような関わりが目的になってしまいます。
「正しい(とされる)」と書いているのは、必ずしも正しくないことも、その保育者・施設では正しいという認識が構築されてしまうからです。

たとえば、食事に関して。
好き嫌いなく食べることや完食することが、その保育者、施設で正しいとされていれば(意識的にそうではなくとも空気感だけでも、その保育者が「まじめ」な性格といった理由だけのことも)、子供をその型にはめ込むべく、干渉的・支配的な関わりが発生してしまいます。


強い関わりでは、いつまでも食事を終わりにしてあげず疎外感を味合わせたり、他の子はできているといった劣等感を植え付けるような不適切な比較をして自尊心を傷つけたり、午睡に行かせない外遊びにいかせないのような罰を科したり、怖い顔で食べるよううながしたり。

新聞沙汰になるような不適切保育でもこの食事の強要による不適切行為がたくさんあることはみなさんご存じの通りです。(食べるまで部屋にひとりで放置した、食べなかった子を洗濯室に閉じ込めた、無理やり食べさせ嘔吐させた、その吐瀉物を食べさせたetc.)


優しい関わりでは、優しい支配のテクニック、おだてや作為的なほめを使ってその「正しい(とされる)」目的を達成させようとしてしまいます。

「食べなかったら外遊びにいかせません」
「野菜食べないと果物あげない」

のようなアプローチの場合、それに支配的関わりを感じよろしくない行為だと認識できる人も

「食べたらお外に遊びに行けるよ」
「野菜食べたら果物あげるよ」

と優しいいい方に変えれば、そう感じないかもしれません。しかし、本質的にそのアプローチに差はありません。

また昨今では、「代弁」の手法や「私メッセージ」をもちいた共感的アプローチがよしとされています。
例:「もう一口食べてくれたら私うれしいな」

たしかにそれらは支配色を排除しようとした安定的なアプローチではあるのですが、それの用いられる目的が結局「子供を大人の望む型にはめる」ためであるならば、強い関わりをマイルドにしたコントロールのテクニックの域からでていません。それを多用することで大人の顔色をうかがう子を作り出す結果になることも起こり得ます。
保育の目的の理念的整備・理解が施設全体で重要ですね。

さて、おだてやほめのどこがよくないのだろう?と思われる方も少なくないかもしれません。

これは保育の原点にある目的と引き合わせてみるとその理由がみえてきます。

現代の保育として子供の成長と考えているのは、

その子その子の個性や発達に応じて、その子自身が自分の力で成長をとげられるよう援助していくこと

です。
つまり、主体的成長です。

おだてやほめを使って大人が良しとする望む姿を作り出すことは、その目的に適合しているでしょうか?

(さまざまなケースがあり実は一概にいえないものでもありますが、その細かな解説をすると話がそれるので文脈上ここでは、基本的にそれはそぐわないものであるとして先に進めます。原則として、おだてやほめで子供の成長を作るのが当たり前ではなく、もしそれを使うとしても個別の状況に応じて配慮としてと考えるのが妥当でしょう)

◆目的的問題のまとめ


ここでしつけで保育を考えることが目的的問題をはらんでいることを整理しておきます。

個々にあわせた発達の援助ではなく、正しいとされる姿を大人主体で作り出すアプローチになる構造ゆえに保育の目的が本来と違うものになってしまう

長くなったので今回はここまで。


保育士おとーちゃんこと須賀義一です。 保育や子育てについて考えたことを書いています。