【コラム これからの保育のために】第5回 高圧的な支配と優しい支配

前回、

>体罰を肯定はしないにしても、「大人が高圧的に子供を支配束縛する」ことを是とする感覚は強く残っています。

と書きましたが、もちろん高圧的に子供を支配束縛するのをよくないと考え、そうしない保育を心がけている人もたくさんいます。

それゆえに次の問題に直面しているわけです。

>「強い関わりがよくないのはわかっている。でも、じゃあどうやって対処したらいいのかがわからない」


少しここで整理しておきましょう。

a,かつて一般的だった価値観から子供に対して威圧的、高圧的な関わりを是とする保育者がいる問題

b,上記a,の状態を否定的に理解しているが、保育実践上の困難に直面している問題

つまり保育界は二段構造の問題に直面しており、そのどちらもが混在しているわけです。

不適切保育でもこの構造があります。
慢性的に不適切を行っているa,の状況。
高圧威圧をよくないとは感じているが、実践上の方法がわからず(もしくは保育の目的自体が不適切で)、そうした不適切行為がでてしまうb,由来の状況。

(これは家庭における虐待案件でも同様の構造があると言えます。
高圧的な関わりを是として慢性的に行っているもの。対して、それらがよくないとは感じているが現実にどうにもならなくてそうなってしまうもの)

さて、今回はこうした保育界の問題を乗り越えていくために、b,の状況の現実をひもとくところからはじめてみます。

b,つまりは、平たく言うと↓これですが

「強い関わりがよくないのはわかっている。でも、じゃあどうやって対処したらいいのかがわからない」


この状況の実際は以下のようなものがあります。

ア、ごまかし、おだて、作為的ほめ、によるコントロール

イ、子供が要求するからと、不本意なことでもしぶしぶの許容が慢性的になるケース


次にそれぞれを実例で見てみましょう。

ア、の実例
・トイレに誘導するためにトイレの壁にキャラクターのイラストを貼っておき、「○○マンいるから会いに行こう」と誘う(ごまかしによるコントロール)

・「はやくお外にいこう。○○先生が呼んでたよ(その事実はない)」(ごまかしによるコントロール)

・「一口食べられたらえらいな。お姉さんだな」(作為的なほめ、おだてによるコントロール)


保「○○してもらっていいかなぁ」
(子供はその通りに動いてくれない)
保「はぁ・・・」

(下手からのアプローチ・コントロール)


イ、の実例

・子供がもっと遊びたいと主張し、それそのままうけとるのでなかなか外遊びから帰れず、日課が維持できなくなっている。
結果、着脱、食事、午睡がままならない状況が慢性化している。その間、子供同士のトラブルや着衣の紛失なども多い。
当の保育者の認識としては「人手が足りない」になっている

・ホール遊びから帰りたがらないと言う理由で、見る大人がいないにも関わらずホールに園児を放置していた。

(こうした状況はほぼそのまま保護者の子育てで起こることにもあてはまっています)

対応法を見る前にもう少し考察を深めて、問題の本質をあきらかにしておきましょう。

ア、のケースは、たしかに高圧的、威圧的な支配をしていないように見えます。
しかし、本質的な部分では支配していることに変わりありません。
一見マイルドなので感覚的に「支配」というとピンとこない人もいるかもしれません。なのでコントロールという表現ももちいています。
それは実のところ「優しい支配」として存在しているのです。

もし、保育士が専門職として自身の職務を確立したいのであれば、そこに気づく必要があります。
でなければ、強い関わりをやめただけで、本質的には変わらないからです。それゆえ、このコラムで最初からテーマにしてきた保育界のゆらぎのひとつ=
「自信を持って保育にのぞめない」
を解決できません。

その課題を乗り越えるためには、「大人が子供の支配、コントロールをすることが当たり前」であったその価値観そのもの(パラダイム)を乗り越える必要があります。
唐辛子で味付けしていたものを砂糖で味付けすれば解決なのではなく、料理そのものを変える必要があるのですね。

ですので、このア、の状況が「優しい支配」であることに気づける視点をまずは獲得できるといいでしょう。

長くなるのでイ、については別記事にゆずるとして、ここではア、についてさらに見ていきます。

ここで出てくる問題はおそらく、
「ごまかしを使わないのなら、じゃあどうやって保育するの?そんなのわからないよ!」

というものでしょう。

保育以前に、日本で一般的にみられる子育てでは、こうしたごまかし、もっとはっきり言ってしまえば「子供だまし」がたくさんあります。
現代の人には子供を叩くことは当たり前ではなくなりましたが、いまだ子供だましは乗り越えられていないようです。

上の例では挙げませんでしたが、ごまかしのさらに延長線上には「おどし」もでてきます。
保育の中でも、節分の行事を「○○しないとオニが来るよ」のように、子供をコントロールするためのおどしに使うというケースをいまだに耳にします。

保育士からの話でベテラン保育士がオニを子供へのおどしに使っていてそれに違和感を感じるというケースは今日でも少なからず聴きますし、保護者からも保育園でオニやおばけを使って子供をおどすので、子供がすごく怖がってしまい夜一人で寝られなくなったなどのケースも多数あります。

これでは保育士が専門性が高いとは社会からは認識してもらえないのも当然です。

保育研修でもこのテーマの話をすると、反発に近い反応が返ってくることもあります。
そこにある本音は、ごまかしをしない保育方法がわからないよ!という叫びのようなものではないでしょうか。

ごまかしでない保育方法を実は保育士みながおそわっているのです。
しかし、それが実践的に理解されていないだけです。
保育士の誰もが知っている言葉がそれです。

それは「信頼関係」です。

高圧的な支配にしても優しい支配にしても、強い支配か優しい支配かの違いだけで大人と子供の関係性が支配関係になっていますね。

それの反対にあるのは、大人と子供が信頼によって関係性を構築するもの、つまり「信頼関係」です。

しかしながら、子供の支配や、ごまかし、おどし、コントロールを多用する人も、実際は慢性的な支配関係であるのに、だれもが自分は子供に信頼されているという意識から信頼関係があると誤認できてしまいます。これは日本の保育における盲点ではないでしょうか。

支配を強めた結果、子供が大人の顔色をうかがうようになるのは信頼関係ではありません。
子供に過干渉を重ねて依存が強い状態を作り出すのも信頼関係ではありません。
子供に冷たい扱いや、疎外をつかうことで、子供がすがりつくような行動をとるのも信頼関係ではありません。

子供は大人に頼ることで生活しなければならないので、どんな支配者に対しても一定程度の頼ろうとする姿を見せます。しかし、それを信頼関係と考えるとさまざまなところで保育の破綻がでてきます。


家庭での子育てと違い、「支配関係もところどころ使うが基本的に信頼関係で構築している」ということは保育では成立しないと考えておいた方がいいでしょう。
保育の実際では結局どちらかに染まります。というより無作為では支配関係になります。そこには保育者の優しさとか愛情とかのお気持ちのあり方は関係ありません。


保育士が意図的に信頼関係を実践的に築けなければ、必然的に支配関係に寄っていってしまいます。
日本の一般的な子育て観も構造として支配関係を形作るので、それはなおさらです。

保育者が意図的に信頼関係を作れなければ、その問題は避けようがないのです。
しかし、そもそも適切に理解されていないものを構築することなどできるわけがありませんね。

信頼関係の適切な理解と実践が安定した保育のためのスタートラインとなるでしょう。


さらに信頼関係についての解説をしたいところですが、これは僕の研修・講演テーマとなりますので、これ以上はそちらをあたっていただくかいずれ有料記事にするかもしれません。
拙著『保育が変わる 信頼をはぐくむ言葉とかかわり』(東洋館出版社)でも信頼関係についてまとめていますのでよろしければどうぞ。

ここでのこの一連のコラムでは、保育界や保育実践、子育て支援のあり方について考えることを中心に書いていこうと考えていますので、その視点からさらに掘り下げて行きます。


保育士おとーちゃんこと須賀義一です。 保育や子育てについて考えたことを書いています。