あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みな…

あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みなさんは独自の旅を楽しんでおります。長年やってきた「北海道ビューポイント」のWEBで人気のあるスポットを綴ってまいりたいと思います。

記事一覧

蝦夷の時代18 松前藩の財政・檜

砂金のゴールドダッシュは約半世紀続き下火になりましたが、明治に入ってから再度復活します。蝦夷の地は、まさに「黄金の国」だったのです。 今日でも町興しの一環で「砂…

北海道の山めぐり10 樽前山

樽前山(たるまえざん) 支笏湖の南側、苫小牧市の北西部にゆったりと裾野を広げ、頂上部に端正な溶岩ドームを持つ活火山です。 寛永7年(1667年)8月以降70回以上の噴火を繰…

観光客が行かない函館の旅・前編

今年は函館公園の桜が例年より早く満開になるというので久しぶりに函館に行ってきました。毎年ゴールデンウィークと重なるので敬遠していました。 トップの写真で右に見え…

北海道のむかし話19 家宝のハラワン

江差の繁次郎 家宝のハラワン 暮れもおしせまって、借金の取りたてがきびしくなってくると、ふだんのらりくらりの繁次郎もだんだん心配になってきた。 ことに、「おれの…

北海道の岬めぐり10 北見神威岬

北見神威岬(きたみかむいみさき) 宗谷岬を過ぎると最北端のガソリンスタンドがあり、ここで給油すると「ホタテ貝で作られた手作りの最北端証明書」がもらえます。(日付入…

北海道ゆかりの人たち 村橋久成

村橋久成(むらはしひさなり) 天保13年(1842)10月 ― 明治25年(1892)9月28日 50歳没 鹿児島県出身 サッポロビールの生みの親 サッポロビールの生みの親「村橋久…

北海道人のルーツ9 蝦夷共和国設立

榎本武揚らは、イギリス・フランス両国公使をとおして維新政府にたいし「徳川家への蝦夷地下賜とその開拓」を再度嘆願しますが拒絶されます。 1868年12月15日、五稜郭…

蝦夷の時代17 松前藩の財政・砂金

松前藩は砂金も財源でした。 徳川家康が松前慶広に蝦夷地の金山のことを聞き、佐渡・伊豆の金山が不振になったとき、奉行は使を派遣しましたが慶広は断りました。 しかし、…

北海道の山めぐり9 黄金山

黄金山(こがねやま) 増毛山地の南端に位置する739.1mの山で、その姿から「黄金富士」「浜益富士」と呼ばれています。 写真は浜益区の市街地から写したものです。 アイヌ…

観光客が行かない東川町の旅・後篇

東川のはじまり このかつてこの地は旭川村字忠別原野の人跡未踏の地でした。 明治28年に忠別原野の貸付が始まり、香川県人30余戸と富山県人10余戸等が東旭川兵村から入地…

北海道のむかし話18 死んだ馬が草くう

死んだ馬が草くう ハアハア息をきらしてかけてきた繁次郎、出合い頭の男をつかまえて、大声で「おい、死んだ馬、草くってるぞ」 男、驚いて、「ばかなことを。死んだ馬、…

北海道人のルーツ8 開陽丸沈没

開陽丸沈没 22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、松前徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後でした。 残存の藩士ら300名が榎本軍に投降。 熊石は…

蝦夷の時代16 松前藩の財政・鷹

慶広は初めて豊臣秀吉に面会した時に「鷹」を献上し、徳川の江戸幕府に対しても毎年献上しました。 この献上鷹の松前からの道中は、各藩の大名領へ手配され大名行列のよう…

北海道の山めぐり8 定山渓天狗岳

定山渓天狗岳(じょうざんけいてんぐだけ)  定山渓に天狗山があると本で読んだことがありました。 小樽の天狗山を描いていたので興味を持ちました。北海道には天狗岳と名…

観光客が行かない東川町の旅・前編

観光客が行かない「東川町」の旅        人口8,437人 (令和2年12月31日)         大雪山国立公園(面積2,267.64k㎡)は昭和9年(1934)12月4日に指定を受…

北海道のむかし話17  頭も名人

頭も名人 「俺はニシンつぶしの名人だ」というふれこみで、雇われたものの、さっぱり働かない繁次郎に腹をたてた親方、このホラふきの繁次郎をぎゅうととっちめてやろう…

蝦夷の時代18 松前藩の財政・檜

蝦夷の時代18 松前藩の財政・檜

砂金のゴールドダッシュは約半世紀続き下火になりましたが、明治に入ってから再度復活します。蝦夷の地は、まさに「黄金の国」だったのです。
今日でも町興しの一環で「砂金祭り」が残っています。

砂金と入れ替わりに江差の檜山が松前藩の財源となりました。
上ノ国天の川より厚沢部にかけての檜山の木材でした。この檜は檜に似たアスナロで、寛永の福山館修築にも用いられています。
延宝6年(1678)厚沢部山を開放し

もっとみる
北海道の山めぐり10 樽前山

北海道の山めぐり10 樽前山

樽前山(たるまえざん)

支笏湖の南側、苫小牧市の北西部にゆったりと裾野を広げ、頂上部に端正な溶岩ドームを持つ活火山です。

寛永7年(1667年)8月以降70回以上の噴火を繰り返し、明治7年2月の大噴火は、それまであった溶岩ドームを吹き飛ばす凄まじさだったといいます。

山名はアイヌ語のタオルマイ(川岸の高いところ)からですが、原名はウフイヌプリ(燃える山)で、荒れ狂う山とアイヌ民族は表現してい

もっとみる
観光客が行かない函館の旅・前編

観光客が行かない函館の旅・前編

今年は函館公園の桜が例年より早く満開になるというので久しぶりに函館に行ってきました。毎年ゴールデンウィークと重なるので敬遠していました。

トップの写真で右に見える白い建物は、市立函館博物館本館です。函館には本館以外に郷土資料館・北方民族資料館・北洋資料館・文学館があります。
この本館には函館飛行場近くで発掘された「北海道志海苔中世遺構出土銭」を含む考古資料、アイヌ風俗画などの美術工芸資料、ペリー

もっとみる
北海道のむかし話19 家宝のハラワン

北海道のむかし話19 家宝のハラワン

江差の繁次郎

家宝のハラワン

暮れもおしせまって、借金の取りたてがきびしくなってくると、ふだんのらりくらりの繁次郎もだんだん心配になってきた。
ことに、「おれの家には先祖から伝わった宝物-家宝ーがあるから、いくら借りてもだいじょうぶだ。心配するな」と、けむにまいていただけに、どうやって借金取りを追い払うかと四苦八苦。
首をひねっ考えたすえ、ポンと手をうって、

「これは迷案、名案」

さて大晦

もっとみる
北海道の岬めぐり10 北見神威岬

北海道の岬めぐり10 北見神威岬

北見神威岬(きたみかむいみさき)

宗谷岬を過ぎると最北端のガソリンスタンドがあり、ここで給油すると「ホタテ貝で作られた手作りの最北端証明書」がもらえます。(日付入り)
稚内からの国道238号は海岸沿いに網走まで319キロのドライブとなります。宗谷岬を通過すると、こんどはオホーツク海に入ります。延々と続きますので、ガソリンの補給が必要です。当分は信号や交通量が少ないので飛ばし過ぎに要注意。

日本

もっとみる
北海道ゆかりの人たち 村橋久成

北海道ゆかりの人たち 村橋久成

村橋久成(むらはしひさなり)

天保13年(1842)10月 ― 明治25年(1892)9月28日 50歳没

鹿児島県出身 サッポロビールの生みの親

サッポロビールの生みの親「村橋久成」を、NHK大河ドラマに誘致しようという動きがありました。1982年、第16回北海道新聞文学賞を受賞した田中和夫の小説「残響」がきっかけでした。
平成17年北海道知事公館前庭に村橋の胸像『残響』が建てられています

もっとみる
北海道人のルーツ9 蝦夷共和国設立

北海道人のルーツ9 蝦夷共和国設立

榎本武揚らは、イギリス・フランス両国公使をとおして維新政府にたいし「徳川家への蝦夷地下賜とその開拓」を再度嘆願しますが拒絶されます。

1868年12月15日、五稜郭を拠点と決め、士官以上の投票で総裁以下の役員を決め「蝦夷共和国」設立。

外国から「事実上の政権」と認められました。
しかし、これは一時のものでしかありませんでした。

榎本政権は財政的には苦しく、また戦闘のため箱館は鎖国状態となり本

もっとみる
蝦夷の時代17 松前藩の財政・砂金

蝦夷の時代17 松前藩の財政・砂金

松前藩は砂金も財源でした。
徳川家康が松前慶広に蝦夷地の金山のことを聞き、佐渡・伊豆の金山が不振になったとき、奉行は使を派遣しましたが慶広は断りました。
しかし、元和2年(1616)慶広が亡くなると、まもなく砂金採取がはじまり幕府にも献上します。因みに、元和2年は徳川家康も亡くなっています。

最初は福島や松前をはじめとした千軒岳(せんげんだけ)を中心とする知内川・厚沢部川周辺でした。
寛永8年(

もっとみる
北海道の山めぐり9 黄金山

北海道の山めぐり9 黄金山

黄金山(こがねやま)

増毛山地の南端に位置する739.1mの山で、その姿から「黄金富士」「浜益富士」と呼ばれています。
写真は浜益区の市街地から写したものです。

アイヌ語ではピンネタイオルシペ(樹叢の平原の中にそびえる雄山)。
黄金名の由来は、かつてこの一帯で金が採掘されたからだと伝えられています。

綺麗な円錐型をした山容に特徴があり、平成21年に国が指定する北海道の名勝「ピリカノカ(アイヌ

もっとみる
観光客が行かない東川町の旅・後篇

観光客が行かない東川町の旅・後篇

東川のはじまり

このかつてこの地は旭川村字忠別原野の人跡未踏の地でした。
明治28年に忠別原野の貸付が始まり、香川県人30余戸と富山県人10余戸等が東旭川兵村から入地したのが始まりです。

翌年、基線道路工事が行われ開通、その後広部農場、岐阜農場などが開設しましたが水害や凶作で離れる者も出ました。そのため農業奨励対策で水田耕作への転換が図られることになります。
明治29年、米の試作で実績をあげ土

もっとみる
北海道のむかし話18 死んだ馬が草くう

北海道のむかし話18 死んだ馬が草くう

死んだ馬が草くう

ハアハア息をきらしてかけてきた繁次郎、出合い頭の男をつかまえて、大声で「おい、死んだ馬、草くってるぞ」

男、驚いて、「ばかなことを。死んだ馬、草くってたまるか」

繁次郎、「ほんとだてば。うそだと思うならかけるか」

男、「よし、かけをする」

こうして、二人のあとに、大勢の人がぞろぞろとついて、馬の死んでいる草原にやってきました。
見ると、馬の死がいはもうくさっていて、その

もっとみる
北海道人のルーツ8 開陽丸沈没

北海道人のルーツ8 開陽丸沈没

開陽丸沈没

22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、松前徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後でした。
残存の藩士ら300名が榎本軍に投降。

熊石は江戸時代当初松前藩領の最北部でした。

熊石は松前藩領の最北部でした。その当時の歴史が「失われた風景」に入っていましたので、合わせて読んでください。

松前徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れますが喀血して倒れ、11月

もっとみる
蝦夷の時代16 松前藩の財政・鷹

蝦夷の時代16 松前藩の財政・鷹

慶広は初めて豊臣秀吉に面会した時に「鷹」を献上し、徳川の江戸幕府に対しても毎年献上しました。
この献上鷹の松前からの道中は、各藩の大名領へ手配され大名行列のようなものもしさであったといいます。

時代劇で殿様が鷹狩りを楽しむ映像を観ますが、蝦夷の鷹は人気があり松前藩にとっては大きな財源となりました。

五代将軍綱吉時代は献上を差し控えましたが、八代吉宗の時に復活、当時は鷹狩りの隆盛期で全島に直領・

もっとみる
北海道の山めぐり8 定山渓天狗岳

北海道の山めぐり8 定山渓天狗岳

定山渓天狗岳(じょうざんけいてんぐだけ) 

定山渓に天狗山があると本で読んだことがありました。
小樽の天狗山を描いていたので興味を持ちました。北海道には天狗岳と名のつく山は12座あり、さらに天狗山を含めると倍の24座あるといいます。

たくさんあるので定山渓と冠をつけていますが、アイヌ語でキトウシヌプリで「ギョウジャニンニクの群生する山」という意味だそうです。

定山渓温泉から道道1号を通り、途

もっとみる
観光客が行かない東川町の旅・前編

観光客が行かない東川町の旅・前編

観光客が行かない「東川町」の旅
       人口8,437人 (令和2年12月31日) 

      

大雪山国立公園(面積2,267.64k㎡)は昭和9年(1934)12月4日に指定を受けており、そのうち東川町域は約半分の面積になっています。
また、北海道の峰といわれる大雪山連峰の最高峰旭岳(2,291m)は東川町域に所在します。

日本百名山にも選ばれ緯度が高く、本州の3000m級に肩

もっとみる
北海道のむかし話17  頭も名人

北海道のむかし話17  頭も名人


頭も名人

「俺はニシンつぶしの名人だ」というふれこみで、雇われたものの、さっぱり働かない繁次郎に腹をたてた親方、このホラふきの繁次郎をぎゅうととっちめてやろうと、大樽にいっぱいニシンを入れて、繁次郎を呼び出し、

「さあ、繁次郎、おまえはニシンつぶしの名人だと自慢しているが、今日はひとつその腕前を見せてもらおう。この樽のニシンをつぶすことができたら、全部おまえにくれてやる」

困った顔をするか

もっとみる