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観光客が行かない岩内巡り・後編

雷電海岸

弁慶の刀掛岩

北は日本海、南は岩内岳・雷電山などのニセコ山系に囲まれ、雷電海岸にそびえ立つ「弁慶の刀掛岩」や積丹半島を見渡せる円山展望台からの眺めは岩内町の財産です。

この岩内町を昭和29年9月26日に台風15号が来襲しました。
通称「洞爺丸台風」です。風がやんで夕焼け空となり函館桟橋を出航した洞爺丸が、間もなく猛然と強風が襲ってきて横転沈没した事件です。

この台風は岩内町でも大火を引き起こしました。


大火となった原因は、当時火鉢に鍋を被せて出かけていたが強風で屋根が飛び、火鉢も吹っ飛んだといいます。火元は高台で傾斜のある海に向かって飛びました。飛び火し、それで収まるかと思えば風は方向を変え、今度は西から東に、更に東から西へと街を一周してしまい、町は3000戸、漁船80隻とともに灰となりました。しかし、翌日の北海道新聞の一面トップ記事は青函連絡船洞爺丸の沈没でした。
昭和36年、岩内町に講演で訪れていた水上勉は、雷電海岸で町長から岩内大火を聞いて名作「飢餓海峡」が生まれました。


文豪夏目漱石在籍地の碑                                



岩内が面白いのは、この小さな町で北海道の歴史に貢献した人たちが多く出ていることです。あの夏目漱石までいるというので驚きです。
日本はかつて兵隊徴収がありました。これは体格の丈夫な男であれば誰もが出兵しなければなりませんでした。ところが、明治時代は北海道に屯田兵が入植しており、北海道に籍を置く者は徴収を免除されていたのです。屯田兵制度が終了すると廃止されました。
漱石は、これを知り当時文豪のたまり場となっていた岩内に、明治25年から大正3年までの23年間を籍だけを移したのです。本人が来ることはありませんでした。
それを岩内の人は碑を建て、資料館に動かぬ証拠の戸籍謄本を展示しています。

不思議な町   
                               
現在の岩内町を訪ねると不思議なことに気がつきます。
「どうしてこんなに飲み屋があるのだろう」
「民宿が多く、それも素泊まりで値段はホテル並み」いくら海釣りとは言っても、ここまでの店も宿も必要はないでしょう。
町の人に聞いて納得しました。隣の泊原発のおかげということです。
泊村で工事が始まると、関係者が大勢集まってきて民宿はいっぱいになり、滞在が長くなります。当然夜の街も賑やかになり、行きつけの店もでてきます。

日本海にある岩内町まで札幌から2時間30分ほどかかります。
行き方は小樽回りと中山峠回りがあり、どちらでも観光のドライブコースとして最適です。
特に用事があるわけではないのですが年に2~3回は訪れ、都度、新しい発見があるので楽しみな町です。


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