映画感想文note【戦雲-いくさふむ-】
「私、丸腰だからさ、あなたも銃を置いてよ」
山里節子さんが、軍事施設の前に立つ自衛隊員に話しかける。
その言葉に応答はない。
声に対し響くものがないその不自然さが印象に残った。
「戦争」が近くなっていることを感じざるを得ない、「戦争の準備」のようにも見えるこれらの動向。
ミサイルを積んだ車を運転する人、銃撃の訓練をする人、門の前で銃を構える人。
その一人ひとりは戦争を望んでいるのだろうか。
そうではなく平和を望んでいるのだとしたら、どうしてそこにいるのだろうか。
戦争の準備が進む理由の一つは、一人ひとりが「自分の声」を失った・失わされたことなのではないかと思った。
「公正を乗りこなす」の中には、
とある。
組織という人はいないし、国という人はいない。
しかし、組織や国は存在し、その中には一人ひとりの人間がいる。
一人ひとりにニーズがあり、それぞれの達成のために集まった集団が組織なのだとすれば、何よりまず大事なのは、「自分の声(ニーズ)」を知ることではないだろうか。
自分を知ることは、簡単なことではない。
むしろ泥臭いプロセスだと思う。
しかし、「自分から逃げて組織の声になびくこと」や「なびいていることにさえ気づかないでいること」というのは楽なことなのかもしれないが、あまりに虚しい。
それで平和が実現されていくようにも思えない。
映画では、自衛隊員の家族の姿も見ることができた。
パンフレットでは瀬尾夏美さんが、
という言葉を寄せている。
戦争によって「多少の犠牲」になっていい人など一人もいない。
「見切りをつけて出ていくかもしれない」
宮古島に住む下地茜さんが話されていた言葉も印象に残っている。
自分が暮らす場所、これからも暮らし続けたいと思う場所に対して、理不尽な理由で「見切り」をつけさせられる。
なんて不平等なことだろう。
この不平等を生み出しているのは、僕たち一人ひとりである。
このことを「遠い空の下の話」と傍観し見過ごしているだけではあまりに無責任であると同時に、危機感が薄すぎる。
にわかに起きた戦争の準備がどこまで進んでしまうのか、想像してみてほしい。
僕は、見過ごすのではなく、社会の一員としての感覚を磨いていたいと思う。
先に、『戦争の準備が進む理由の一つは、一人ひとりが「自分の声」を失った・失わされたことなのではないかと思った。』と書いた。
「失わされた」としたのは、自分の声を聞こえなくしてしまっている「社会」があるからだ。
そして、その「社会」をつくっているのも、僕たち一人ひとりである。
「自分の声」を手放さず、探し、持ち続けようとすること。
一人ひとりの「自分の声」を無視しないこと。
『「自分の声」を大切にできる一人ひとりであり、大切にされる社会』になるよう生きていきたい。
*
今まで知らないことが多く、恥ずかしくなりましたが、みることができてよかったです。
おすすめの映画です。
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