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「自由」と「居心地のよさ」。その交わりについて〜「あのこは貴族」を読んで〜

こんばんは。
昨日、「あのこは貴族」を読みました。
映画は公開中に見ていましたが、原作も読んでみようと思い立ち、一気に読み終えました。
後半は鳥肌ものでした。
「文章によって鳥肌が立つ」って、すごいことだなと思います。
ただ感情が動くだけでなく、それが「目の前の世界での出来事」だと感じるからこそ、そのような反応が起こるのでしょう。

*

この物語の登場人物はみんな興味深いのですが、以下に4人を紹介します。
東京生まれの箱入り娘、華子。
地方生まれ東京在住OL、美紀。
華子の小中高の同級生でドイツと日本を行き来するヴァイオリニスト、相楽さがらさん。
美紀の高校・大学の同級生で地元の旅行会社へ就職後独立した、平田さん。

華子と美紀と相楽さんと平田さん。
この四人を階層で分けるとすれば、「華子と相楽さん」ー「美紀と平田さん」となります。
この分け方では、出身、家柄、そしてそれらから強く影響を受ける幼少期の体験などがそれぞれで合致します。
しかし、この四人を「華子」ー「美紀と相楽さんと平田さん」と分かつこともできます。
これは、「部外者になる経験の有無」による分け方です。
華子は、自分が生まれ育った世界から出ようとしません。
一方、美紀と相楽さん、平田さんは、動機はネガティブなものであったとしても、自分の地元から飛び出して「部外者」として生活した経験を持っています。

いきおい美紀は思った。
自分は、彼らの世界からあまりにも遠い、辺鄙へんぴな場所に生まれ、ただわけもわからず上京してきた、愚かでなにも持たない、まったくの部外者なのだ。
でもそれって、なんて自由なことなんだろう。

「部外者」として生きた経験のある美紀や相楽さん、平田さんの人生こそ素晴らしい、というわけではもちろんありません。
ただ、「自分が感じている違和感を解消しようと行動すること」は、「自由」を知るきっかけにはなり得ることだとは思います。
そして、それはまた「居心地のよさ」について考えるきっかけにもなります。

けれどおかしなことだった。家族や同級生はあの街で充足して、なんの疑問もなく、あんなに居心地よさそうにしているのに、自分一人だけがなぜだか、あそこになじめなくて、あそこにいたいとは思えないのだ。
ー中略ー
東京でも地元でも、美紀だけが輪の外側に、ぽつんと立っている。

「居心地のよさ」とは、どんなものなのでしょう。
生まれ育った地元にそれを感じる人もいれば、そこから飛び出すことで感じる人もいます。
そして、美紀のように飛び出してみたところで、どちらにもそれを感じられない人も。
美紀の場合、東京に出たとき「自由ではあるけれど、居心地はよくない」と感じている時期があったのではないかな、と思います。
一方の華子は、東京から出ず「居心地はよいけれど、自由ではない」と感じていたのかもしれません。

「自由」と「居心地のよさ」。
それらをどちらも手にしようとするのは欲張りでしょうか。
欲張りなことなのかもしれませんが、僕は欲張ってもいいと思いますし、それは実現不可能なことでもないと思います。

戻りますが、「居心地のよさ」とは、美紀の言葉を借りながら表してみると「輪の外側にぽつんと立っている感じがしないこと」ではないでしょうか。
「居心地のよさ」を地元で感じようと、それ以外の場所で感じようと、どちらの方が良いということはありません。
自分がどこにいようとも、それを得たいと思う人にとって必要なのは、「周りを見つめる目」ではないかと思います。
馴染むために周りに合わせるだけでは、居心地がよいとは感じないでしょう。
しかし、「周りを見つめる目」なしに「居心地のよさ」も手には入らないと思います。
「周りの人たちに対しどう関わるのかを考えること」で、「関わりしろ」ができ、「輪の外側にぽつんと立っている」ところから脱却できる気がします。

自分の感じたことから繋がる「自由」。
周りを見つめる目から繋がる「居心地のよさ」。
どちらかを犠牲にしてすり減らしていくのではなく、どちらも手にしていこうと努力していく。
物語の最後では、華子と美紀のそんな姿を感じました。


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