「共有」と「共感」

僕には中学のころからずっと好きなアーティストがいる。
ラジオでインディーズ時代の彼らの楽曲に出会いめちゃくちゃに心打たれて、そのまま今でもずっと大好きなバンドだ。
当時さほど発達してもいないネット通販でCDを取り寄せて、本当に何度も何度も聴いていたし、ギターをコピーして練習したりもしていた。
周りにこのバンドすごく良いよ!と布教して、数少ない友人同士で盛り上がったりもしていた。
でもまあ所詮数少ない友人同士の盛り上がりで、周りで聴いてるどころか名前を知ってる人も全然いなかった。
そのことにもしかしたら優越感みたいなものも感じていた気がするし、ただただなんでお前らこの良さがわからねえんだ!っていう怒りを感じていたような気もする。

僕が高校生になったころ彼らはメジャーデビューを果たした。
通学路にある個人経営のCD屋さんでデビューシングルを購入して、それも何度も何度も聴いた。
CD屋さんの店員さんにお願いして、そのCDのポスターも貰ったっけな。
高校でも「僕の好きなバンドがメジャーデビューしたから聴いて」と布教に勤しんでいた。
けどまあ反応は薄いもので、そんなよく知らないバンド別に聴かないわ、興味ないわ、という冷ややかな反応が主だった。
相変わらず、数少ない友人同士で盛り上がる程度が関の山だった。

高校1年か2年のころだったか、リリースされたそのバンドのシングルがついに大ヒットした。
確かリリース直後はそこまで爆発的に売れたわけではなく、じわじわと売れてやがて彼らの代表曲になっていったという感じだったと記憶している。
もちろん当時の僕はリリース直後に購入して相変わらず布教に励んでいた。
最初は冷ややかな反応だったものの、前述のようにじわじわと売れたものだから、知名度が増してくるにつれ「そういえばお前あのバンドのCD持ってたよね?貸してよ!」という人が周りに増えていった。

このときに感じたのは、自分の好きなものが売れた嬉しさよりも、苛立ちの方が大きかった。
そのバンドの曲は何も変わってない、そのバンドを好きな僕も何も変わっていないのに、なぜあのときまるで興味を示さなかったものに今更この人たちは興味を示すんだろう、今更好きだと言い出すんだろう、と。

僕の出身高校は桜井高校というのだけれど、桜井高校には「桜高ダンス」という風習があった。
毎年の体育祭で、その時々の流行の曲に合わせて全校生徒でダンスをするというものだ。今もあるのだろうか。
そのバンドの楽曲がヒットした翌年度に、そのヒット曲が桜高ダンスの楽曲に選ばれた。あれ誰が選んでたんだろう。
自分が好きなバンドの好きな曲で、学校のみんなが踊っている姿に、逆に何とも言えない寂しさを感じてしまった。
僕がもっとまっすぐな性格だったら、僕の好きなものがみんなに受け入れられて嬉しい、幸せだ、と素直に思えたのかもしれないけれど。
好きに優劣は無いし、あの時CD貸してとせがんできたクラスメイトや、桜高ダンスを楽しく踊っていた全校生徒が、あのバンドのあの曲を好きと思うことは否定しようがないし、僕が先に好きだったのに!BSS!なんて言うつもりもないけれど。

ああ、この曲はもう"僕の曲"じゃなくて"みんなの曲"なんだな、という感覚だった。

漠然とした「流行」というものへの苦手意識を、強く意識したのはこのときだったように思う。

今でも、みんなが好きなものは、じゃあ自分が好きじゃなくてもいいか……と思ってしまう節がある。
別に流行ってるものが嫌いとか、セルアウトはwack!!アングラこそreal!!とかそういうことを言っているわけではない。
ただ、これは僕のためのものじゃないんだな、と勝手にこちらの心が離れてしまうのだ。

これは売れないバンドマン・役者・芸人の彼氏を支える彼女の心情かもしれないし、同担拒否の心情とも地続きなのかもしれない。

別に他人と共有しなくてもいいし、みんなが好きになってくれなくてもいいし、それで他人と盛り上がれなくてもいいし、それが好きなことを理解されなくても、自分だけが心の中で愛せるものが好きなのだ。

実際にはそんなの大いなる勘違いなのだ。
高校生当時の僕は、流行のポップスには一切興味を示さず、日本のインディーズバンドやら、洋オルタナバンドを好んで聴き漁っていた。
だけど、インディーでも音源リリースしてラジオや雑誌に乗って田舎少年の耳に届いている時点でまあそこそこ売れてる方だし、洋楽だって周りに聴いている人がいなかったというだけで全国では売れてるし本国ならアリーナ級のアーティストだ。
その時点でまったく"自分だけが好きなもの"ではないのである。
でも、そのアーティストたちを聴いている間は、自分だけのものであってくれたし、そう勘違いさせてくれていたのだ。
誰とも共有しなくても、もしかしたら誰とも共有しなかったからこそ、深く愛せたのだ。

今はネットでどのページを開いても「共有」というボタンがついている。このnoteすらそうだ。
そりゃそうだ、僕だって僕の書いた曲は共有してもらいたいし、流行って欲しいし、売れてほしいと心から願ってる。
僕の書いた曲がいま桜高ダンスに選ばれたらすごく嬉しいと思う。

でも「共有」と「共感」はきっと全然違うものなんだよな。

それぞれ別のパラメータというか。別集合というか。互いに素とまでは言わないけれど。
共有されて欲しいと願うと同時に、あの頃のハヤシケイ少年が「この曲は自分だけのものだ」と共感してくれるような歌を作りたいな、と思う。

この話のポイントですが、

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