3.11

阪神淡路大震災のころ自分は富山のド田舎に住むガキンチョで、当時インターネットも身近でなく、自分にとっては、家族親戚と1学年20人程度の小さな小学校のクラスが社会のすべてでした。

テレビで大きな地震があったというニュースを見て、幼い自分にはそれがどれほどの大災害かも想像がつかず、倒壊した街並みの映像を、ただ知らない場所の知らない人に起きた「画面の向こうの他人事」のように感じていたように思います。

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やがて成長し、大学進学を期に東京に移り住むようになりました。
全国から人の集まる大きな大学でしたから、自分とはまるで違う境遇で育った友人らと出会い、自分が今まで見てきた世界の狭さを肌身に感じました。

また、大学在学中にボカロPを始めてインターネットを通じた知人も多く増えました。
ネットでの発信活動は、日本中色んな場所に住む人、自分よりもずっと年上や年下の人、色んな仕事に就いている人といった具合に、さらに豊かな出会いをもたらしてくれました。

そんな折に起きたのが東日本大震災です。

その日、僕は都内の自宅アパートでPCに向かっていました。
東京でも感じられた大きな揺れに慌てて、部屋着のまま裸足で家を飛び出したことを覚えています。
一旦揺れが収まったのを確認し、部屋に戻りニュースを見ると、東北を中心に大きな地震があったと一斉に報じられていました。
地震が珍しくもない日本ですから「とはいえそんな大したことないだろ」という楽観がどこかにあったようにも思います。

ただそう思えたのも一瞬で、やがて飛び込んできたのはあの津波の映像でした。

家、車、田畑を飲み込んでいく濁流の映像にようやくこれはただ事ではないぞと悟り、戦慄しました。
そして思い浮かんだのは、大学生活やネットで出会った東北地方出身の友人知人の顔でした。
彼らは無事だろうか、彼らの家族は無事だろうか、建物の下敷きになっていないだろうか、あの津波に飲み込まれていないだろうか。
心配したところで今は何かできるわけでもない、連絡するのも今は逆に迷惑だろう。
ただ無事を祈るばかりでした。

しばらく経って確認したところ、幸いにも直接の知人で震災で亡くなった、大怪我をしたという方はいなかったようですが、避難所生活を余儀なくされたり、家具家屋に被害はやはりあったそうです。
もしかすると直接面識はなくても、当時自分の曲を聴いてくれていた方の中には、命を落とした方もいたのかもしれません。
確かめる手段はありませんが。

1995年には他人事だった災害が、2011年には他人事ではなくなっていたみたいです。

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時は経って2014年のこと。

「このへんで一番旨いものをよこせ!」と銘打ったライブツアーで、石巻、大船渡、宮古の3箇所でライブをさせていただく機会がありました。
いずれも東日本大震災の津波による大きな被害があった場所です。

そのちょっとコミカル?なツアータイトルですから、あんまりウェットな気持ちにならずに音楽を一緒に楽しもうという趣旨ではありますが、とはいえ被災地であることを無視したものでもありません。
移動の合間、災害に遭った場所を見る機会もありました。
身長よりも遥かに高い場所まで届いた津波の跡、土砂でひしゃげたのであろう鉄柱、未だ復興の途中にある更地など、その傷跡は映像や伝聞だけでは感じ得ない生々しいものでした。

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少し話は前後しますが、2013年からの話。

2013年~2017年の間、毎年8月に3週間ほどかけて自転車で移動しながら各地で路上ライブをする、ということをやっていました。
トラブルも沢山ありましたが、2017年にようやく全都道府県を巡ることができました。
初めての土地ばかりなのに路上ライブに足を運んでくださる方がたくさんいて、ネットを通してこれだけの人に自分の音楽が届いていたんだなと、毎箇所毎箇所感動しきりでした。

さて、自転車で移動していると色んな街の景色が目に入ります。
観光地でもなんでもない場所が日本中にあって、そこで暮らしている人の生活があるという、当たり前のことを気づかされます。

3年目の2015年は東京から札幌までを目指す計画で、道中、福島の山道を通ることがありました。
桃の直売所があったので休憩がてら立ち寄ると、店主の女性が気さくに声を掛け桃の試食を促してくれました。
猛暑の峠道を登った先、汗だくのへとへとで口にしたその桃は甘くて瑞々しくて、こんな美味しい桃食べたこと無い!と思わず破顔してしまう絶品でした。

当時の福島といえば、原発事故の影響で、農作物への放射能汚染を心配する声が今よりもずっと大きい時期でした。
僕は科学者ではありません。放射能の知識も昔読んだ雑学本程度しかありません。放射能汚染を取り巻く風評も、何が正しい、何が間違っていると断言する能力はありません。

ですが、あの日に食べた桃はそれまで食べたどんな桃よりも美味しく、その桃を育てた店主はそこに生活していて、笑顔で僕に桃を振る舞ってくれたということだけは、僕にとっての確固たる事実になりました。

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2017年、天月さんに「ツナゲル」という曲を書かせていただきました。

この楽曲はdocomo東北復興プロジェクトのテーマソングということで、震災を通して感じた思いを素直に曲に込めさせていただきました。
その中で、

目を逸らしてしまうような 悲劇的なことが
君の目の前に立ちはだかるとき
力になれるかな 何もできないかな
それでもできるなら そばにいさせて

https://www.youtube.com/watch?v=LgDHZoczBGo

という歌詞を書きました。

ミュージシャンというのは社会にとって何の力もありません。
誰かの空腹を満たすことも、破壊された家屋を建て直すこともできないと、2011年3月11日に否応なく認識させられました。

たまに「あなたの曲を聴いて救われた」というようなありがたいメッセージをいただくこともあります。
ですが、そんなときは「音楽はせいぜい鎮痛剤でしかなくて傷を癒やす特効薬にはなれません。苦しみから立ち直れたのなら立ち直った自分自身の強さを誇ってほしい」と答えるようにしています。

「音楽には力がある」と胸を張って言える自身が僕にはありません。

そんな無力な音楽でも唯一役割があるとするなら「それでもできるなら そばにいさせて」ということなのかもな、自分なりのそうであって欲しい、そうありたいという祈りだったのかな、と今振り返ってそのように思います。

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2022年、一件のご依頼を受けました。
「アキレスと亀」という福島のバンドさんからのご依頼で「タイムカプセル」という楽曲の編曲をお願いしたいとのことでした。

頂いたデモは美しいメロディーと歌詞にとても惹かれるものでしたが、ご依頼に添えられたメッセージがさらに心を打つものでした。

「東日本大震災で被害を受けた故郷の情景を未来まで残したい」

楽曲の説明欄にもあるように、Vo/Gtヨシダさんの故郷である福島県大熊町は、福島第一原子力発電所がある場所です。
居住が制限され、紛れもなく震災によって失われた故郷です。

僕自身、出身の地元(富山県朝日町)に対して何にもねークソ田舎だとかなんとか露悪的に口汚く言うこともあるのですが、それも帰る地元があっての甘えなのかもしれません。
ひねくれた貶し愛の一種なのかもしれません。
もし本当に自分の故郷が失われたとき、どんな気持ちを抱くのか、今でも想像ができません。

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つらつらと、自分自身と震災にまつわる話を書き留めてみました。
かつて幼年時代には他人事だったことが、社会と関わり人と関わることを知るにつれ、すべては自分自身の出来事であり、決して目を背けることはできないことなのだな、と自覚していった、という話です。
大したオチもない話にお付き合いいただきありがとうございます。

安っぽい正義感や自己陶酔なのかもしれませんが、ここまで読んでいただいた方にはぜひ検索募金とか、簡単でいいからできることをしてくれたら嬉しいなと思います。

僕が好きだと思える人たち、僕のことを好きでいてくれる人たちには、せめてその生活が平穏無事であってほしいと願います。

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