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乗るか?乗らないか?

資本論の件を昨日書いたが、仏教との相性や近代社会との関係を考えてみたい。 

仏教のコントロール

仏教は欲望を滅するという。滅するというと無くすと考えるかもしれないが、本来はコントロールするという意味。滅がゼロというなら、ブッダは悟った時から食欲がなくなり死なないとならない。

現実に仏典では、瞑想後そのまま餓死しょうとしたと記述されているものもあるようです。

しかし、ブッダは梵天の要請に答え、人々に法を説き始める。すなわち、命を維持する。食欲をもつ。他者への思い、慈悲というべきものが生じたのであろう。

ということで、利他的精神から欲望を残した。欲望をコントロールしたとも考えられる。

資本論では

資本家と労働者の関係が問われている。基本、労働者は資本家が描いた欲望という列車に乗らなくてはならなくなる。ところが資本家もその列車に巻き込まれ、お金を集めるに執着し始める。

市場では常に競争が行われています。儲けにこだわり、規模を拡大していかなければ、他社とのシェア争いに敗れて淘汰され、従業員の賃金を払うどころではなくなるかもしれない。事業を継続していくには、効率化やコストカットを進め、競争力をつけて、儲け続けなければなりません。            つまり、資本家も自動化された価値増殖運動の歯車でしかない、ということです。(45頁)

ミイラ取りがミイラになる感覚であろうか?

豊かさとは何か

仏教では、欲望に生きることは苦しいという。得るという行為は、結果生じるは問題ないが、意図して得ようとすると、得られないことに苦しむ。手放すことを増やすことで、欲望にコントロールされないで生きるを考えている。それ故に、布施という考えが大切にされてきたのであろう。

これは、物を欲する、喝愛の否定であり、必要以上持たない生活の肯定であったのであろう。

『100de名著 資本論』では

資本主義は、生産力を上げるなかで、労働者の「自律性」も人間らしい豊かな「時間」も容赦になく奪っていく。(85頁)

と述べている。物に振り回され、時間も失う。精神的にも肉体的にも、貧困した形になる。

このように仏教(初期仏教)と資本論を比較すると近似性が見えてくる。人類の経済活動が地球を破壊しつくす「人新世」といわれる現代、資本論がもう一度注目されている。同様に仏教も注目されている。

それは飽くなき欲望の電車に乗るか?乗らないのか?を問われている証拠ではないだろうか?

生きていくには、乗らねばならない、しかし、その事実を解明し、その中で適切に生きる。

仏教は智慧の宗教という。至るべき場所へ、自分の都合を廃して、正しく認識し、行う。そのためには正しく見ることが必要となり、そのために心を調える必要がある。その方法として、調身、調息すなわち瞑想や念仏や唱題という修行法を用いた。自己をメタ認知し、自己のあるべき姿を見つめるために。中道とは、真ん中という意味合いではない。言い換えれば、バランスともいうべきものではないだろうか?

『100de名著 資本論』私にとって仏教と社会を考えさせてくれる興味深い一冊です。






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