見出し画像

信と疑と

宗教の問題というと昨今は、旧統一教会の問題であり、古くはオウム真理教になる。(ザイム真理教はまた別だけど…(笑))

信を問うとなると疑うことなきもの、盲信的なものをよしとする傾向がある。はたしてそれでよいのであろうか?

さらには、信仰のバロメーターが布施と考え、ある種の布施の強要、布施の洗脳があったのではないだろうか?

安倍氏殺害の原因になったのは、生活を壊すほどの布施にあった。過剰であったのであり、出来うる範囲をゆうに超えたものであったことにある。

バランスとは、こうであるとは固定できない。中国の為政者 晏嬰は阿衡と言われバツグンのバランス感覚を褒められた。

また、仏教は中道を説く。それは、状況のなかで欲望をコントロールした上でメタ認知することなのであろう。言うは易し行うは難しだが…

信と疑に触れた名著としては

宗教は現代人を救えるか (平凡社新書)

https://amzn.asia/d/0O0i7TZ

がある。

佐々木 社会に問題が起こった場合、一番大事なことは、事実を正しく見て、それに基づいた判断を下すことですが、これはまさに仏教の基本です。諸行無常 諸法無我という仏教の旗印は、人々が皆、欲望のせいで、諸行は常であり、諸法に我があると思い込んでいるその誤った世界観を、自分の欲望を取り除くことで消したときに、はじめて見えてくる真実の姿です。ですから、社会の問題の一つ一つにコミットするのではなく、社会の問題を扱うときの人間の姿勢について、仏教から発言することはできます。正しく見るために我欲、我見を消せということです。 人はみんな自分を優先して考えますが、それを取り除いたときに真実が見えて、それによる判断こそが正しい判断になるということです。小原 我々が世界を見るといっても、様々なバイアスがかかっていますから、そういうことを自覚したうえで、より中立的な形で世界をありのままに見るというのが、仏教の世界の見方ということですね。佐々木 そうです。ですから、世俗の人たち皆が良いと言っていることに対して、常に疑間を持つんです。
小原 その点は大事ですね。冒頭で私が話した、信仰と疑いを共に持つべきだというのも、その点に関係しそうです。疑いの目を持つことは、きわめて仏教的なものの見方だということですね。
佐々木 そうです。ですが、それによって、ある特定の事例にどちらかの答えが出るわけではありません(96〜97頁)

学び多い一冊です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?