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リレーエッセイ「訳書を語る」/『この熱を伝えたい』(熊谷玲美)

ポピュラーサイエンスの翻訳をしている熊谷玲美です。天文学や物理学を中心にいろいろな分野の本を訳しています。今回は、これまでの訳書に登場した科学者という切り口で2冊の本(2人の科学者)を紹介します。

心動かされる出会い

科学の本というと専門家向けのイメージが強いかもしれない。しかし、ポピュラーサイエンスは、「科学を、専門学術用語を用いず、一般大衆に理解できる平易な言葉や例で説明したもの」(デジタル大辞泉)であり、基本的には興味さえあれば誰でも楽しめるもの。物理学や数学の本でも、数式はほとんど出てこない。

もちろん、難解な理論や実験の説明は、「平易な言葉」で書かれていてもやはり難解なことが多い。しかしポピュラーサイエンスの本の魅力は、そうした難解な理論や実験の向こう側にいる科学者や技術者の姿を垣間見られることだと私は思う。たとえば私の大好きな1冊である『完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』(マーシャ・ガッセン著、青木薫訳、文藝春秋)。これは100万ドルの賞金がかけられた数学定理「ポアンカレ予想」の証明をめぐるノンフィクションだが、たとえポアンカレ予想を完全には理解してなくても(私はしていない!)、1人の天才数学者の数奇な人生をめぐるストーリーにどっぷりと浸れるはず。

そうしたポピュラーサイエンスの魅力は、訳すときにも当てはまる。科学者や技術者の人間くさい奮闘を描いた文章を訳すのは、私にとっての翻訳作業の醍醐味の1つだ。これまでの訳書を通して多くの個性豊かな科学者に出会えたが、今回紹介するのはそのなかでも特に印象深い2人で、1人は本の中に登場する人物、もう1人は著者自身だ。

原子核物理学者テイラー・ウィルソン(『太陽を創った少年』)

一人目は、テイラー・ウィルソン。『太陽を創った少年 僕はガレージの物理学者』(トム・クラインズ著、早川書房、2018年)の主人公だ。

テイラーは、2008年、14歳の若さで核融合に成功し、当時の世界最年少記録を更新した「天才科学少年」だ。原子炉などで起こるのは、ウランなどの重い原子がそれより軽い原子に分かれる「核分裂」反応。核融合はそれと反対で、水素などの軽い分子が衝突して重い原子になる反応だ。太陽などの恒星はこの核融合反応がエネルギー源になっている。

『太陽を創った少年』は、テイラーが核融合に成功するまで、そして成功してからのストーリーを、サイエンスライターである著者がテイラーや家族、教師などへの直接取材から描き出すノンフィクションだ。その切り口は核融合(原子核物理学)だけでなく、科学教育、天才児(ギフテッド)教育まで幅広い。

私が好きなのは、著者がテイラーとその父親とともに、ウラン鉱山跡へウラン鉱石を掘りに行ったときの一場面だ。

テイラーはつるはしを何度か振り下ろすと、ソフトボール大の黄色い石を一個拾い上げた。ガイガーカウンターを近づけると、その検出音は速くなって、当たりだと知らせた。「コードイエロー!」大喜びで叫ぶ。「わあ、超ホットだよ!」

『太陽を創った少年』より

やがて日が傾きはじめ、時間を気にし始めた父親が声をかける。

「テイ、中国まで掘り進むつもりかい?」
「中国にウランがあるなら」テイラーは顔を上げて、父親の目を真っすぐ見て言った。「喜んでそこまで掘っていくよ!」

『太陽を創った少年』より

こんな風になんにでもとことんのめりこむ集中力と、「難しいといわれると、かえってやりたくなっちゃう」というチャレンジ精神。そしてホワイトハウスでも研究成果を堂々とプレゼンし、当時のオバマ大統領に「われわれが君を雇っていないのはどうしてだろうね?」と言わせるほどのコミュニケーション能力。著者はそんな強烈な「テイラーの世界」に引き込まれていく。核融合に成功できたのも、優れた頭脳だけでなく、周囲の大人を引きつけて、仲間にしていく力があったからだ。

私もいつしか、まぶしく光るテイラーという恒星の引力に引きつけられ、彼の挑戦を応援するようになっていた。そして訳しているのは私なのに、テイラーが訳文の中で自分の意思で自由に動き回っているような感覚をおぼえた。そんなことは初めてだった。

訳了後、東京で開かれた原子力関連のイベントでテイラーの講演を聞く機会があった。20歳を過ぎて大人になっていたが、原稿も見ずに熱っぽく語る様子は『太陽を創った少年』に描かれていたままだった。まるで、映画かドラマのキャラクターが現実に目の前にいるような、不思議な気持ちになった。この来日のエピソードはタイミング良く訳者あとがきに書くことができた。

考古学者サラ・パーカック(『宇宙考古学の冒険』)

二人目は考古学者のサラ・パーカック。『宇宙考古学の冒険 古代遺跡は人工衛星で探し出せ』(光文社、2020年)の著者だ。

考古学といえば人文科学のイメージだが、最近では遺物の分析に化学や生物学、物理学の分析手法や知識が活用されており、「考古科学」(Archeological Science)という呼び方もある。サラ・パーカックは、人工衛星観測データなどの最新テクノロジーを用いて、宇宙から地上の未知の遺跡を見つけ出す「宇宙考古学」の第一人者だ。 

この本の刊行時、私はtwitterにこんな投稿をしている。

とにかく「わかる、そういうことはあるよね」と言いたくなる、共感エピソードが次々と出てくるのだ。古代エジプトが専門のサラは、憧れのインディ・ジョーンズ(つまりハリソン・フォード)に会えることになり、とんでもなく舞い上がってしまう。そうかと思うと、衛星データを使って未知の遺跡を発見したと思ったら、偉い先生に「この構造物があるのは何年も前から知っています」と言われてひどく落ち込んだサラは、「チョコレートをたくさん食べた」。 

BBCからヴァイキングの遺跡を調査してみないかと提案されたときのエピソードもそうだ。サラは、エジプトが専門だからヴァイキングはちょっと、と渋っている。

すると、エグゼクティブプロデューサーが魔法の言葉を唱えた。「調査費用は全部こちらが持ちますよ」
ああ・・・私の弱点だ。そんな申し出はそうそうない。私にはちょっと変化が必要だったのかもしれない。あるいはランチと一緒に飲んだリンゴ酒のせいだったのだろう。(中略)イエスと答えた記憶はないのだが、そう言ったのは間違いなかった。その証拠に、家に帰ってみると、そのプロジェクトの予算関連のいろいろな電子メールがすでに届いていた。

『宇宙考古学の冒険』より

こんなふうに、頼まれごとを断り切れずに引き受けてしまったことがないとは言えない。 

またある章では、人工衛星データと発掘調査で見えてきたエジプト古王国崩壊の歴史を、ある1人の少女とその家族の視点から物語風に描いている。ナイル川の水位低下による食糧不足で家族を失い、遠く離れた土地で新たな人生を築いていくストーリーに、涙もろい私は訳しながら涙腺がゆるんでしまった。きっとサラも涙もろくて、一緒に映画を見たら私と同じ場面で泣くような気がする。

サラの文章では、考古学への情熱が率直で飾らない言葉によって語られている。翻訳するうえでは、なんとかしてその熱量をそのまま日本語に移したいという気持ちが強かった。難しい部分があっても、原文からずっとサラの声が聞こえていたので乗り切れたと気がする。

これからも、こうした心動かされる出会いを楽しみにしながら翻訳の仕事を続けていきたい。個人的には、電磁気学や近代天文学の黎明期のような、現代科学につながる時代の科学者の評伝などを訳してみたい。


■執筆者プロフィール 熊谷玲美(くまがいれみ)

フリーランス翻訳者。大学で地球物理学を学んだ後、独立行政法人勤務を経て、2007年に独立。ポピュラーサイエンス書籍のほか、日経サイエンスなどの雑誌記事の翻訳をしている。最近の訳書は『動物たちのナビゲーションの謎を解く なぜ迷わずに道を見つけられるのか』(デイビッド・バリー著、インターシフト)、『ファーストスター 宇宙最初の星の光』(エマ・チャップマン著、河出書房新社)、『オークション・デザイン ものの値段はこう決める』(ポール・ミルグロム著、早川書房)など。趣味は弓道、フィギュアスケート観戦、中国語学習、小麦粉をこねること。


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