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好きを数値化することはできないけれど(趣味)

最近、様々な作品やコンテンツの評価を、理屈っぽく思考し過ぎず、もっとフィジカルな基準に寄せても良いのかな、と思うことがある。つまり、通勤中にその一曲だけ延々と鬼リピできる曲だったか。数年を経てまた読み返したくなった小説か。倍速視聴やSNSのチラ見をせずに没入できた映画だっか。疲労や飽きを感じず何時間でもプレイしたゲームか。みたいな体験的な部分に着目するという意味だ。

例えば、僕は普段からそこまで習慣的に漫画を読む方ではないが、それでも無料で読める数多の作品を差し置いて、実際に購入に至るほどハマった作品は幾つかあった。その事実はそれだけで、口先でああだこうだ総評や感想を並べ立てるより、よほど正確に自分なりの好きを計れるなと感じたのだ。

そもそも作品を「評価」だなんて何様だという話ではあるが、コンテンツを振り返って良かった悪かったと感想を抱くのは普遍的な営みである。さすれば次は、なぜ良かったか・どれほど良かったかをも考えるし、脳内ランキングだって(優劣語りなど無粋だと承知しつつも)作ったりする。SNSや会話を通じて人に勧める文脈が生ずれば、評論っぽさ・紹介文っぽさには拍車がかかるだろう。

ただ、作品の評価を言葉で改めて表現する時って、無自覚に「私はこの作品をどう評価する人間でありたいか」という、乱暴に言ってしまえば願望や自己プロデユースに近いバイアスがかかっていると思う。硬派なオタク気取りや高二病なんかはその最たる例である。かぶれた読書家が『ドグラ・マグラ』を読んで「奇書って言う程でも無かったわw」などとイキってしまう姿が散見されるのも、半数は「見識の有る自分なら御しきれたがね」という自尊心の表れによるものである。※主観による脳内調査による

昨今はやたら「言語化」なる行為が神聖視されがちだが、会話や文章におこす感想って、後付けや総論的な視点になりがちで、上述のバイアスに強く干渉されやすいフィードバックでもあるとも感じる。結局、自分にとってどれくらいハマれる作品だったのか、その問いを作品体験中のフィジカルな熱意に尋ねてみることは、存外考えて捻出した言葉とは異なる無自覚な本音を覗けることがあるかもしれない。

まあ、そういう自己暗示めいたバイアスを剥ぐことが、必ずしもメリットばかりとは限らないんだけどね。

僕は、ポケモンの最新作はとても素晴らしい作品だと喧伝したいタイプの人種である。文章ならそれこそ、沢山の良い点と多少の悪い点(客観性を保つため)を挙げて、一記事分くらいはゆうに語れるだろう。けれど実際は、DLCの追加シナリオを購入するほど熱量を維持できなかった。それで本編の魅力が霞む訳ではないけれど、上述の記事を書いたとして、説得力に欠けるなあ嘘っぽいなあ願望によるポーズが入っているなあという呪いには苛まれそうである。逆に、つい夜更かしして寝不足になりがちだったゲームこそ本当に好きだった作品で、そっちの記事を書きましょうかねえ、みたいなことを考える。

ちなみに、文章を書くのは楽しいと度々ほざいているが、一銭にもならないnote趣味をダラダラ続けられている事実こそが、自己願望ではなく本音なんだと思う事ができる要因である。……もうお気付きかもしれないが、この記事の主張そのものが実は別のバイアスにかかっている。結局は好きと言う感情なんて思い込みが全てで、数値化できなければ、事実も本質もあったもんじゃないのだ。

冷静になるんだ。