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止まった腕時計と、観賞用のラー油

時計の秒針が止まったままなのだ。と言っても何かしらの比喩表現ではなく、文字通り僕の腕時計が故障しているという話。どうせ気付かれることもなかろうと高を括って、それを修理にも出さず平然と装着している。ただ、くたびれたデニムを履くような杜撰さとは少し意味が異なるのだよ、とは誰にでもなく弁明しておきたい。

そもそも「時計」という名称のイメージに引っ張られがちだが、腕時計の最たる役割とは装飾品としての見映えである。これはネクタイを締めることの意義が、防寒や皮膚の防護ではないことと同じだ。もちろん時間確認という実用性が伴っているに越したことはないが、それは二の次の機能であって本質ではない。

腕時計が苦手で常用したくはない僕にしても、他社訪問する時とか、旧友や女性と飲む時とか、なけなしの真人間指数に下駄を履かせるべく、意識的に身に着ける機会はままある。その目的が身だしなみの一助である時点で、この腕時計は依然として機能を果たしているのだ。つまり秒針が動いていなかろうが、この腕時計はまだ壊れていないと定義できるという訳だ。

それにしても「止まった時計」とは、いかにも象徴然としていて、進捗ままならぬ我が人生への示唆を邪推してしまう。いっそ某錬金術師よろしく、意味深にDon't forgetとでも刻んでやろうか。

なんて、そんなドラマチックな転換点すら空想の産物だ。人間誰しも、自分の闇や淀みのルーツに劇的な物語を求めてしまうものだ。けれど実際はどうだ。僕の漫然とした日々とはまるで猫背のようで、ただ姿勢を正そうとしなかっただけの日常を幾度となく繰り返し、気付けば大きく歪んでしまっただけに過ぎない。それを悲劇と呼ぶにはあまりに自意識が醒めてしまっているし、卑近だ。

僕はこの腕時計がいつから止まっているのかを把握していない。いつの間にか壊れてしまっていて、詭弁を捏ねては現状を良しとして今日も生き長らえている。それで良いじゃないかとも思っている。





数年前に『unnamed memory』という小説(アニメ化が決まりましたよ!)を読んだ。ヒロインの部屋には琥珀色の酒が飾られていて、それに主人公が気付くというシーンが作中にある。「飲むのか?」「観賞用ですよ。色が綺麗なので」という会話が続く。その何でもない日常パートのやり取りが妙に記憶に残っていた。鑑賞用の酒。それ自体は斬新な発想でもないけれど、ヒロインを引き立てる小道具としてお洒落な着眼点だなと思う。

ところで、僕の卓上にはラー油のガラス小瓶が置いてある。僕は辛い物があまり得意ではない。これは異常に食欲減衰していた昨年の夏頃に、少しでも食欲が増進すればと苦肉の策で購入したものだ。半年以上経過した現在、結局ほとんど使用しておらず、中指ほどの小瓶にはまだ7割も中身が残っている。

常に目のつく位置に鎮座しているそれを、一方で僕はよく手慰みに指先で掲げては眺めている。透明な物質とはそれだけで綺麗に見えるものだ。小瓶の、プラスチックではないガラスのひんやりとした冷たさと、指で突いた際の硬質な感触も心地よい。表面の商品シールはウェットティッシュで磨くように削ぎ取り済で、もはや文字情報は何も残っていない。ガラスと、ラー油という存在だけが、ただ目の前にあるだけだ。

小瓶を斜めに傾けると、内容物のラー油も重力に追従して容器の中でさらりと片側に偏る。その際、液体に浸っていた部分のガラスは、直ぐには元の透明さを取り戻すことができない。ラー油の僅かな粘性が、薄い赤色の膜を小瓶の内壁に残すのだ。これは食器の汚れに見えてあまり綺麗じゃない。ラー油にはラー油の、ガラスにはガラスの、それぞれ独自の透明感が美しいのだ。とはいえ目先に液体の小瓶を掲げるのに、それを傾けもしないというのは観賞ポーズの美学に欠けるというものだ。

小瓶を傾けたまま少し待てば、やがてラー油とガラスは再び綺麗な境界線を形成する。斜めに傾きつつ透明色も二分されている、この状態が一番美しい。いっそこれを維持するため、液体を固形化してしまおうか。ラー油を固める方法ってなんだろう。凍らせるとか、凝固剤を使うとか、ラー油自体の時を止めてしまうとか、くらいしか妥当な選択肢は浮かばない。

どうせ殆ど使っていないからね。使う。使うってなんだ。このラー油の主用途は、もはや掲げて眺めることだ。いつの間にかそうなっていた。昔「食べるラー油」なる商品が話題になったし、「見るラー油」があっても良いと思う。時に、過去に読んだ小説のワンシーンを想起したりもする。そのような思案の火種にもなれば、果たして観賞用のアイテムらしい在り方を確立しているのではなかろうか。

僕は僕なりにちゃんとラー油を使っているのだ。……ほらまた、いつの間にか何かを違えてしまっていて、意味不明な意義を見出しては一人で首肯している。それで良いじゃないか。良いのか? こんなしょうもないことを書き殴っている間くらい、本当に時間が止まってくれれば良いのにね。


冷静になるんだ。