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”多様性”や”グローバル”の言葉に対する認識

鶴田茉理奈

近年、“グローバルな視点”とか、グローバルな人材”、また、“多様性を受け入れる”、“異文化理解”、など、このようなワードが経済や政治、文化、価値観などあらゆる側面において登場する機会が本当に多くなったと思います。要するに、これからの時代は世界共通のスタンダードを視野に入れて、色々な考え方を理解していかなきゃいけないよ、ということだと私は認識しています。これは本当にその通りで、世界中のあらゆるものがインターネットによって繋がった今、その環境に柔軟に対応していくことが求められているのだと思います。しかし、このような話題になるたびに出てくるのは日本の問題点です。日本にはしばしば“均一国家”だとか、“多様性のない国”だという声が挙げられています。みんながみんな同じような容姿をして同じ言語を話し、同じような価値観や慣習を重んじているから新しいものを受け入れられず、これからの時代において発展してくことができない、という意見があります。確かに街を見渡せば、似たような容姿と共通の言語で溢れています。だからこそ、日本が国をあげてグローバルで多様性のある社会を提唱するのは自然な流れかもしれません。
 しかし、ここで一度“多様性”について考えてみたいと思うのです。多様性の認められる社会って、なんだか自由で理解があって、みんなの価値観が尊重されるような、目指すべきもののように聞こえますが、それが全ての終着点ではないような気がします。多様性を認めると言っても、主張がなんでも許されるわけではありません。他者と社会で共存していくためにはどこかで譲りあったり、妥協することもあると思います。異なる価値観を持つ人がいることを認識するのはとても大切なことです。しかし、“多様性を認める”ことがパワーワードとして正義になっていく中で、自分の主張が認められないのは多様性がないからだとか、多様性を認めるのならこういう考えも趣味も否定しないでよね、などという極端な方向へ暴走する危険性もあると思います。また、他者の多様性を尊重し、否定しないことが善だという流れが社会で生まれれば、それはそれで意見のぶつかり合いという名の多様性も失われかねません。“多様性”は便利な言葉であるがゆえに、流行語のようにあらゆる場面で使われていたら、それを盾にとった自己主張合戦になっていくような気がしてなりません。
 日本はこれまで、社会の様々な面において個人よりも集団に軸においた構造で物事を進めてきました。近年その根本にある考えが問題視され、もっと個人を大切にしそれぞれの多様性を尊重しようとする流れが生まれています。大切なのは全ての多様性を認めて受け入れることより、そのバラバラに存在する価値観を最終的にまとめていく流れであり、ある一部が大満足するものではなくみんなが少しずつだけ寛容になり、最もトラブルが起きにくい最低限ラインを用意していくしかないのだと思います。
 

そして、日本の目指す“グローバルな社会”について。日本は大半の人が日本国籍であり、人種的多様性がほとんどないのが事実です。しかし、その事実は必ずしもマイナスな要素として引き合いに出してくるべきではないと思います。
グローバルな人材とは、英語でコミュニケーションがとれて異文化を理解している、といったイメージがなんとなく先行していますが、日本の環境でそのようないわゆるグローバルな空間を作っていくことには限界があるのではないでしょうか。日本語で溢れる社会の中で生まれ育ちながら、異言語でコミュニケーションができて、なおかつ世界のあらゆる異文化を理解し、バイアスもなくみんなの主張に対して自分の意見を発信できる人はいるのでしょうか。みんな、体は一つです。生まれ育った場所の慣習とか環境とかそういうものの影響をどうしても受けざるを得ません。日本という一国に定住しながら異なる国の文化を本当に理解することは、不可能に近いことだと思います。理解していると思い込み、断定的に国の価値観を決めつけてしまう方がよっぽど危険です。つまり、日本人ばかりの日本に暮らしているからこそ生まれてしまう偏った見方をしてしまうことは当然であり、どうしようもないことだと思うのです。そもそも意見の対立というものは、それぞれのこれまでの価値観とか慣習に影響された偏見のぶつかり合いなのではないでしょうか。だから日本は均一国家で多様性がないからグローバル化するべきだ!という外側からの勢力に、日本の根源となる部分を卑下し、世界のスタンダードの波に全体重をかける必要もないのではないか、と思います。もちろん先進国として世界の国々と繋がっていくことは日本の役割でもありますが、自然と多様な人種の集まる国々と、そうではない日本を同じ土俵で比較することはできないと思います。“グローバル”という言葉が社会のあらゆる場面で叫ばれれば叫ばれるほど、日本人と、日本社会と、世界と、色々なものの歯車が食い違っているような、そんな感覚を覚えます。
日本は今、これまでの慣習や絶対化されていた独自の認識を見直し、改善を図る時期を迎えています。めまぐるしく変化する世界の流れに合わせていきつつも、現代まで培ってきた日本的考えや文化を肯定的に踏まえたうえで、新しい概念と向き合っていくことが理想的なのだと思います。かつての日本が西欧のあらゆるものを取り込み、歴史の中で“日本風”に変化してきたように、異なるものを受け入れたうえで日本文化と適応させ新しい価値を見出していくことを、グローバル化の流れにも活用していければいいなと思います。

 ここまで色々なことを考えてきましたが、私は異なる主張や価値観に出会ったとき、受け入れるというよりは、ふーんなるほどね、ぐらいの感覚でいる方が、もっと生きやすくなるのではないかと思っています。自分の確固たる主張が80%だとすれば、20%くらいはたくさんポケットを作っておいて、色々なものを拾ったらとりあえず入れておく、そのような姿勢でありたいと私は思います。良い意味で他人の考えや価値観に対して距離を置くことが、新しい調和を生み出すのではないでしょうか。


あとがき
 社会における問題について考えていると、今の日本は解決すべき問題を果てしなく抱えていることに気づきます。と同時に、これまで絶対とされていたものが崩れたり、考えもしなかったものが生まれたり、認められなかったものが認められたりと、たくさんのことがものすごい勢いで変化しているのを感じています。10年前は考えもしなかったことが今は当たり前になっていることに驚かされる毎日ですが、そんな移りかわる社会の中で、今現在起こっている現象に今現在の自分の感覚にしたがって書き進めました。1年前の自分にはなかった考えでもあり、1年後の自分はまた違った考えを持っていると思います。社会のあらゆることに目を向けて、自分なりに考えを巡らせた貴重な時間になったと思います。
 

#エッセイ #コラム #大学生 #メディア

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