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二番目に大切なことは、比べないこと。そして、一番大切なことは決して比べないこと。

 人は悲しい生き物で、何でも比べたがります。

 仕事も、趣味も、資産も、年収も、子供も、親も、配偶者も、愛車も、住まいも、容姿も、足の長さも、挙句の果てには性格までも。

 常に比べて、勝った負けた、良かった悪かったとやっている。

 実は比べること、それが自体が不幸の種なのです。

 時々、テレビで事故などで足を一本失った犬や猫が登場し、足が3本しか無いなりに元気に走り回っている姿が紹介され、観ている人間が勝手に励まされたりしています。

 あれは人間が勝手に健気に頑張っていると思い込んでいるだけで、本犬や本猫は健気のつもりでも、特に頑張っているという意識もありません。

 人間だけなのです。他の人と比べて、僕は足が一本足りないから不幸だなんて考えるのは。

 時にその思いは、実際に足を失ったことで被る不便よりも、ずっと人を苦しませます。

 そう、比較することで、人は不幸になるのです。

 突然ですが、ぼくはまぁまぁ不細工です。若いころはそれがコンプレックスでずいぶん悩んだものです。

 では、ぼくはなぜ不細工なのか。遺伝?違います。

 比べるからです。世の中にはイケメンがいます。そしてフツメンがさらにたくさんいます。それと比べることで、ぼくはぼく自身を不細工にカテゴライズし、いつもそれを思い出し、苦しんでいたのです。

 比べなければ、ぼくの顔は不細工ではなく、ただ単にぼくの顔でしかありません。

 足が一本無いのと比べるのは申し訳ないのですが、比べなければ足の足りない犬や猫のように元気いっぱい青春時代を過ごせたかも知れない。

 女の子の前で固まってしまうことも無かっただろうし、カップルを見ると、石を投げつけたくなるなんで青春を送らずに済んだはずなのです。

 それにしても人はなぜこうも比べたがるのか。

 それは本来、より良いものを選び、より良いものを手に入れ、より良い人生を手に入れるため。

 そうです。より良い人生を手に入れるためです。せっかく手に入れた良いものが、あなたの人生を豊かにしてくれるのでなくては、選ぶことの意味も本来、無いのです。

 ところが今は良いものを選び、手に入れると、それを使ったり、楽しんだりするまもなく、すぐにより良いもの探しが始まります。

 選ぶこと、もっと良いものを手に入れることばかりが重視され、良いと思って手に入れたものを、使ったり、楽しんだりすることもそこそこに、また、比べて、手に入れることを始めてしまうのです。

 その特に目立った例が、ファッションだったり、車だったり。

 ファッションに至ってはお店に、もしくはサイトに行って選んで、買う時間、さらにその服を買うためのお金を稼ぐために働く時間を併せれば、実際にその服を着ている時間よりもずっと多いなんてことはよくあるのではないでしょうか?

 車も同様で、高級車なんかは、選び、買う時間はともかく、それを買うために働いた時間の分、あなたは運転席に座っているでしょうか?

 大金を払った愛車は95%車庫にいて、買った本人はローンを払うために働き詰めなんてこともよくある話です。

 さらに人間は悲しいことに、より良いものに交換することができないものまで、比べてしまいます。

 ぼくのように自分の顔 (整形すればある程度、選べる) とか、自分の子供は他の子と比べてとか、自分の親は友達の親と比べて、とか、自分の配偶者(離婚すりゃいいじゃん)は他と比べて、とか。

 取り換えようのないものまで、比較して苦しみ、わざわざ不幸を呼び込んでいるのです。

 さらにインターネット社会が比較中毒に拍車を掛けています。SNSは比較対象の嵐です。顔、スタイルはもちろん、持ち物から、旅行先まで(前澤さん、宇宙旅行達成おめでとうございます)

 資本主義は今、転換期が叫ばれています。今までの拡大だけを指向した資本主義は終わりを迎えようとしています。

 僕らはそろそろ、毎日毎日、より良いどんぐりを探しに出かける生活から、手元にあるどんぐりを存分に楽しむ、とことん楽しむという生活に変えていく時期に差し掛かっているのではないでしょうか?



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