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79 疎遠な楽しみ

多数派をつくりたがる人

 私は、オフの時間にひとりでいることが苦痛ではない。そうではない頃が子どもの頃にはあった。誰かといたかった。古い写真を見ると誰かと写っているものがあるけれど、それが誰なのか半分ぐらいは思い出せないのだけど。いわゆる「友達」が多数いた痕跡はある。しかし、いつしか、ひとりでいることが苦痛ではないことに気づいてしまった。
 そもそも、一人っ子である。
 人間は基本的に、ひとり単位なのだが、どういうわけか社会ではそうはいかないのだ。
 たとえば、仲の良い四人で話をしているとする。お互いに遠慮はない。好きなことを言ってもいい。それなのに、徐々に二対二、あるいは三対一へとなっていく。
 一対一対一対一、という状況は社会では考えにくい。それなのに「自分の意見を持て」とか「自分の頭で考えろ」といった意見もあるけれど、どちらかといえば同調、協調が重視されているのが社会なのである。
 ひとりでいれば、同調も協調も必要ないので(厳密な意味で言っているわけではないけれど)、恐らく自分の意見、自分の頭で考えているはずだ。
 仲間といる限り、私は誰かの意見と対峙するか同調するか、しょうがなく協調するのである。
 それがSNSでは、個人単位なのだから、自分の意見を言いっぱなしでいいのではないかと思えるのに、実はそうではない。古くはパソコン通信や掲示板による匿名の意見交換であっても、どういうわけか多数派を形成しようとする人たちがいる。
 ディベートのような勝ち負けであったり、正しいか間違っているか論争のような戦いであればわかるのだが、大したことのない話であっても多数派を形成したいと動く人たちがいるので面倒である。あれはなんだろう。

自分の意見が通らないとしても

 人生の選択肢として、「あくまで自分の意見を通す」選択もあれば、「とにかく通りやすい意見に乗っかる」選択もある。いずれにせよ、「通す」ことになるため、そこに勝者と敗者が生まれる。あるいは「貸し借り」が生まれる。人間関係とは、こうした勝ち負けと貸し借りなのだ、と言ってしまえばそれまでだけど、私はそんな人間関係ばかりじゃないと考えている。
 もちろん、自分としてはもっとも優れた意見だとしても、世の中に通らないことも多い。たとえば、エスカレーターだ。相変わらず東京では左側にみな一列になっている。
 私は真ん中、あるいはたまには右側にいたい。ときどきやってみるのだが、いまもこうしたことをすると身の危険を感じる。命をかけてまでやることではない。だから、やっぱり中央付近、あるいはやや左寄りにいる。
 まったく理不尽な話で、そもそも「立ち止まって」とか「歩かないで」といったポスターがベタベタ貼られているのに、立ち止まらず歩く人たちに正義があるかのような現象が起きてしまう。
 これが社会である。
 こうして自分の意見が通らない場面に直面したときに、「負けたくない」「通りやすい方につきたい」と考えたら、「大人になれよ」とか「世の中はそういうものだ」的な高圧的で論理的ではない思考方法に巻き込まれていくことになる。
 私はいま問題になっている与党の派閥の問題をワーワーいくら言ったところで、社会がそういう性格を持っている限り、是正されることはないと考えている。人が変わっても、同じことをする。それは「ずっとそうやってきた」「みんなそうやっている」「やらないなら出ていけ」といった圧力がある以上、それを突破できる人ばかりではないからだ。
 しかも、突破する人が出てきたら、その人についていって付和雷同的に「ワーッ」と突破しちゃうとしたら、それもどうなのだろう。やっぱり自分で考えていないことにならないか?
 教育の問題のひとつとして「自分の意見を持て」と言っておきながらその意見が世の中に受け入れられないときはどうすればいいのかを、きっちり考えさせていないことだろう。そういう教育機会はないのだ。負け組であるとか少数派になったとき、あるいは孤立したときにどういう人生が考えられるのかを、教育は示さないのである。
 まさに、こうした場合にどうするかは、自分で学んで考えて結論を出すしかない。

疎遠でも問題ない

 私の場合は、「疎遠になること」に尽きる。自分の経験で、誰かとべったりつるんでいい結果が出たことがないからだが、それは必ずしも不幸ではない。大谷翔平選手が、エンゼルスで地区優勝できなかったからといって、不幸なはずがないではないか。
 では、ドジャースに移籍して優勝できなかったら、どうするのか。そんなことはないだろうと思うけれど、勝負ごとには「運」がつきまとうので、こればかりはなんとも言えないことだ。
 野球選手は確かにチームプレーである。個人の考えだけではない。自分勝手にやることは難しい。かといって、フリーエージェントで新天地を選んだり、トレードで他チームへ行くこともあるのだから、そこにおける「チーム」は絶対的な場所ではない。これは、会社でいえば、どのセクションに移動されても同じようなことは起きる。
 チームの事情、各メンバーの考えをある程度把握した上で、自分の考えを形成していき、そうして到達した結論を納得できるかどうかは、性格にもよるし一種の訓練によっても差が出るはずだ。
 私はチームプレーをあまり信用していないので、その方面のリテラシーは極めて低いだろう。そして、人生においても、ムリはせず、そうした選択をしてきた。
 だから、人と疎遠であったとしても、私はぜんぜん平気である。もっとも、それは家族がいるから言えるのかもしれないが、勝ち負けも同調も協調も強制されない範囲で生きて行くことが、自分らしい生き方なのだと思っている。
 
 
 

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