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183 読んでいない本について

『源氏物語 A・ウェイリー版』と『美しい星』

 今朝も少し早く目が覚めて寝床で『源氏物語 A・ウェイリー版』(紫式部著、アーサー・ウェイリー訳、毬矢まりえ訳、森山恵訳)を読んだ。まだ1巻目で、最後の章「明石」に入ったところだ。光源氏は都を離れて失意のわび住まいである。もっとも、古い説話あるいは中国の古い話、さらにはあらゆる国の古い話にあるように、地位の高い者、優れた者が、辺境の地に流れてついて、そこで起こるドラマというものがある。これもその一種なのだろうか、と思ったりしつつ読んでいる。
 なお、須磨、明石は、私にとっても幼い頃の思い出の地で、須磨の海岸で遊んだこともあるし、明石では天文台や水族館へ行ったものである。だから、源氏物語に登場するその地の辺境ぶりはよくわからないのだが、そもそも作者の紫式部だってそれほど多くの土地を見知っているわけではないだろうし、などと思っている。明石は穴子やタコがおいしいよね。
 また、三島由紀夫『美しい星』も読んでいる。コメディとしての要素に満ちているけれど、重厚な描写のおかげで、笑いどころが判然としない。そんなもどかしさを感じている。だが、とにかく「私は金星人だ」とか「私は火星人だ」と家族が思っている状況。あるいは、もっと別の星から来たと気付いてしまった人たちが、人類を殲滅しようと思いつつ、なんだか些末なことに奔走している姿は、やっぱりコメディだよな、と思ってもいる。
 だけど、今日は読んでいない本について書こう。

カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹訳)

 『シーシュポスの神話』(カミュ著、清水徹訳)の新潮文庫版(平成14年)が本棚にあった。これは読んでいない。では読み始めようかと思ったら、なんだか面倒くさい本なのである。
 最初の章は「不条理な論証」で、その冒頭の項目は「不条理と自殺」なのだ。そしていきなりこんな書き出しだ。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学の根本問題に答えることなのである。」(P11)
 小説ではない。論証なんだな。そして最初から小さなナイフで人の首を突っつくみたいな言葉が並んでいて、いやもう、これ、ずっと読んでいられるだろうか、と思ってしまう。そして見事に、読まないのである。
 多少は気になるけれど。カミュ自身は自殺していないが、46歳で亡くなっている。自動車事故というのだが、KGBによる暗殺説もある。
 その前に、いまの時代の自殺の扱い方だけど、基本的に精神的な問題とされることが多いし、うつ病と関連付けることも多いだろう。さらに著名人の自殺報道では、詳しい話はあまりせず、厚生労働省などの相談窓口を案内して終わらせる。これは、しそうな人を刺激しないように、ということなのかもしれない。日本の自殺者は多いときと少ないときでバラツキはあるけれど、毎月1500人前後で推移しているように見える。男女比は2:1ぐらいで、男性が1000人自殺している月に女性は500人ぐらい自殺している。男性の方が多い。
 私は専門家ではないし、そもそも本を読んでいないので、これ以上のことはあまり言えない。同時に、こうした事実に向き合うのでさえ、ちょっと怖いのである。好奇心だけで触れていい領域ではないような気がしてしまう。
 そう、『シーシュポスの神話』(カミュ著、清水徹訳)は面倒臭いだけではなく、読むのが怖いとも言えそうだ。ホラー小説のような意味の怖さではない。たぶん、自分に跳ね返ってくる「何か」が怖いのだろう。
 いつか、読む時が来るだろうか。来ないだろうか。いまはなんとも言えないけれど。
 しかしどうしてこの本が今日に限って気になったのだろう。大した意味はないはずだが。おみくじで「凶」が出たような気分である。

書きかけ。小豆色のネコ


 


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