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1 すべては微睡みの中で決まる



noteに記そうと思う

 5時半ぐらいに目が覚めて、『アメリカ紀行』(千葉雅也著)。東海岸と西海岸は別の国のようだよね。というか都市ごとに別世界だよね。そこで決める。本間のnote「微睡みの中で恋をして」を始めよう。それが読書日記であり日記でありリアルなのだが創作でもある。

読み方が変わってきた

 『アメリカ紀行』は、どうやら8月29日頃から読み始めていて、かれこれ1ヵ月ぐらいかかっている。どういう読み方をしてるんだ、と思うが、実は、自分のライフスタイルが大きく変化したために、本の読み方が変わってきた。かつては、仕事のいったんとして読まなければならず、読む意欲も仕事と同じレベルで高かった。私は仕事への意欲はかなり高い方なので、仕事に必要な本だけではなく、かなり読んでいた時期がある。それは、主に移動時、電車の中でだった。
 紙の本も買うが、基本的には電子書籍。スマホで読む。これの利点は、スマホがあればいつでも読めること。そうは言っても、ついこの間まで電車の中だけと言ってもよかった。
 あと、早く目が覚めたときだ。
 枕元にあるスマホで時間を確かめる。午前4時半。あるいは午前5時。ときどき午前3時半。ふと目が覚める。このふと目が覚める時間はだいたいこの3つのどれかで、それはこの数年同じだ。
 起床時間はだいたい5時なので、それより早く目が覚めたときは、スマホで本を読む。
 そして、いまは電車での移動時間が極端に短くなってしまったため、電車内で本を読む時間も極端に減った。
 だから、ほぼ、早く目が覚めたときのみに読書時間は限られてきた。犬の散歩時に、家人がスーパーに立ち寄って買い物をしている間にも読むが、そういう機会そのものが酷暑のために絶無となって久しかった。7月8月はとてものんびり犬の散歩ができる日はなかった。
 いや、言い訳はよそうと思いながらくだくだ述べた。いまから削除する気にもならないのでこのままだ。
 要するに仕事の熱量で本を読まなくなったのだ。

だらだら読む


 のんびり、読む。だらだら読む。
 仕事的熱量で本を読むときは、とにかく早く読み終えたあとに、その本とはいったい自分にとってなんだったのか。それを振り返るために本の紹介をブログに書いていた。それは自分の備忘録であり、一種のピリオドであった。「ここでこの本についてはいったん終了」とした。
 それが、いまは、ピリオドを打つ必然性がない。だから、早く読み終える必要がない。
 この感覚は、私が読書に目覚めた時に戻っていくようだ。トルストイの本を2ヵ月ぐらいのんびり読んでいたことがあった。『復活』だった。『戦争と平和』を読めばよかったな、と思いながら読んでいた。北杜夫『楡家の人びと』を読んでいた夏もあった。とにかく、あてどなく、少しずつ読む。これが自分の本来の読書スタイルだ。なにしろ、中学の1年間、『シャーロック・ホームズの冒険』をずっと持ち歩き読んでいたことがあった。1年間、朝起きて朝食を食べながら読み始め、通学中、そして下校時(友人とどこかへ行かない限り)に読み、夕食時にも読んでいた。それでも、飽きることなく1年。本がボロボロになった。

学問と小説の間をつなぐなにか


 『アメリカ紀行』(千葉雅也著)は著者がアメリカに滞在していた期間に起きたことと感じたことと、それを題材に自身の中でまとまったことなどが書かれている。これまで、著者の本は『勉強の哲学 来たるべきバカのために』『メイキング・オブ・勉強の哲学』『現代思想入門』そして小説『デッドライン』『オーバーヒート』『エレクトリック』と読んできて、とくに小説で、この語り口が気になった。だから、『アメリカ紀行』になにかヒントがあるのではないか、学問と小説の間をつなぐなにかがあるのではないかと思い、読み始めたのだった。
 まだ、読み終わっていない。いま読んだのは、目次でいえば「二人称」「Redemption」「肌色(マイアミ)」「静電気」「当事者」といったあたりで、もう少しで終わってしまうな、と感じている。
 確かに、自分もニューヨークではとんでもなく見知らぬ人から話しかけられたことを思い出した。こっちは英語があまりできないのに。ロサンゼルスは車社会だから、そういう他人同士の接触そのものが少なく、シカゴやダラスではほとんど話しかけられなかった。もっとも自分の体験は1980年代のことであるけれど。

キリスト教と科学


 やはりアメリカ(アングロサクソン)価値観の根底にキリスト教と科学があることを知る。日本は仏教あるいは仏教っぽいなにかが根底にあって必ずしも科学を必要としていない。キリスト教では神がどうやったのかはわからないがとにかく神が六日間で天地を作った。プロセスが明確である意味それを信じてしまえばそれが科学になる。
 中世の錬金術は科学だった(間違っていたとしても)。そこを科学だから信じる基盤があった。同時に信じられないものは非科学として弾圧したり無視する。
 日本は非科学の中に真実があるんじゃないかと根底で感じている人たちの集団である。ところが、キリスト教的には異教徒で非科学的な人たちに対して弾圧から転換しキリスト教的でなおかつ科学的(近代の)思考により、キリスト教である自分たちが異教徒をも包容できることを証明するために日本の非科学の象徴である天皇を残しその後も協力的で支配的な関係を続けることに成功した。
 これは科学の勝利であり(原爆は科学の象徴だ)、キリスト教的考えを確信できたに違いない。
 一方、日本は彼らが異教徒であり非科学的な自分たちを容認したことを受けて感謝すると同時に、やっぱり八百万の神で正解だったと確認したに違いない。キリスト教的な寛容と仏教的な寛容は違う。
 その点でロシアとウクライナの戦争に、日本は思想的にはなにも言えないし、NATOも日本にはまったく期待していないのだ。それは中国に対しても同じで、米国は対中にどうしても日本占領の成功体験があって、異教徒でもイケるんじゃね、と思っているフシがありそうだ。日本と中国は全く違う。中国は科学の国である。共産主義は科学なのだ、という前提がなければ話は噛み合わないのではないか。
 なんてことを、微睡みながら思うのだった。明日か明後日には読み終わりそうだな。


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