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194 やり切らない人生

老いと保守的な行動

「どうして、来た仕事を断るんですか」と森川が言う。
 彼は四十代の編集者で、いまの会社は三つ目。離婚していまは独り身。私と一緒に仕事をしたことはない。ある酒宴でたまたま名刺を交換し、少しだけ話し込んだ。
「だって、面倒臭いじゃないですか」と私は、自分でもバカなことを言っていると自覚しつつも、答えている。
 森川の体格はとても横に広い。こうした体格の人にありがちな、汗かきである。暑そうにしながら、酒をかなりの量、いっきに飲む。そういう飲み方をするから汗もブワッと噴き出すのではないかと、見ていて心配になる。
「いや、でも、立花さんとか、こっちが心配になるぐらい断らない人もいらっしゃいますよ」
 立花はライターらしい。私は会ったことはない。
「そういう人がいると、助かるでしょう」と私。私のような、基本的になんでも断る人がいる以上、回り回って、なんでも引き受ける人のところへ仕事は流れていく。とてもいい循環ではないか。市場経済とはそういうものだ。
「そうでもないんですよ。スケジュールがねえ」と目は遠くを泳ぐ。
 なんでも引き受ける人のスケジュールがどうなるのか、私は想像できない。きっと素晴らしい能力があって、テキパキと仕事を片付けていきながらも良質の原稿を忍者の手裏剣みたいに、ササッとクライアントめがけて投げつけていくのではないだろうか。かっこいいよね。
「もう年だから、簡単には引き受けられないし、だいたい、もう、そういう仕事はできなくなったんだ」と私。
「やり切ったってことですね」
 その言葉が妙に引っかかった。その後、どんな話をしたのか覚えていない。ハイボールと頼んだのに、腰のないウイスキーを炭酸で薄めた妙なドリンクが来て、そのグラスをじっと睨み付けていたことは覚えている。

中途半端じゃダメですか?

 仕事を断るのは、老いを自分で感じていること、そしておかしなことに巻き込まれたくない、と保守的になっているからだ。それはわかっている。そこではなく「やり切った」との言葉に引っかかったのだ。
 そういえば、私は何かを「やり切った」と思ったことは多々ある。しかし、物事は主観だけでは完結しない。自分で「やり切った」と思ったとしても、周囲の人、あるいは誰かが客観的に評価して「この人はやり切った」と言われてはじめて完結する気がする。
 スポーツ選手や芸能人のように、多くの人たちに自分の仕事を開示していると、誰もが「やり切った」と認める瞬間もありそうだ。だけど、そうではなく、地味に生きてきた人には、そういう評価はまず望めないのではないだろうか。
 会社員や公務員のように「定年制度」がある仕事では、定年の日に、やり切った感が溢れてもおかしくはない。とはいえ、そのように予定されたある時点から振り返った場合、自分が何かをやり切った瞬間はどこにあったのか、はっきりわかるだろうか? 定年は「来てしまう」ものだろうから、そこに合わせてドンピシャにやり切るのは難しいのではないか。
 そして、私は「なにもやり切ってはいない」と自分に言ってみる。あれもこれも、すべて中途半端に放り投げてきた。そしていつの間にか老いたのだ。いまさら、なにかをやり切るだけのパワーも才能もない。その自覚だけは明確にある。なぜなら、中途半端に終えたままのものを、いまさら蒸し返してやり切って見せるようなエネルギーそのものが、自分には残っていないからだ。そして、いまからやり切るための何かを見つけて取り組むことも、いまは考えられない。
 だとすれば、これまでも、これからも、私は中途半端でいいんじゃないか。どうせここまで中途半端で来たのなら。
 そんな不遜なことを思ってみるのだった。

描きかけ


 


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