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101 いつもの日常はいつもあるわけではない

元日の地震

 気象庁の命名は「令和6年能登半島地震」とのこと。元旦の夕方16時10分頃に起きた地震は、東京も長く揺れた。
 コロナ禍は私たちに、簡単に日常が崩れることを教えてくれたが、そもそも東日本大震災でも、阪神・淡路大震災でも、同じことを教えられた。
 日常とは、一種の鈍感さである。敏感すぎる人にとっては、日常はあり得ず、常に不安と恐怖にさらされているだろうが、それだと、とても生き辛いので、私たちは適度の鈍感さを備えるようにしてきた。これが、あまりにも鈍感になり過ぎると、被災地の感情を逆なでするような言動になっていく。
 過剰適応には、注意しなければならない。落ち込んだときに落ち込み過ぎないこと。舞い上がったときに舞い上がりすぎないこと。わかってはいても、そうそう平常心ではいられない。
 日常は、どうでもいいことや些末なことに気を配れる状態かもしれない。
「昼メシ、何食おうかな」「ゲームでもやろうか」「このテレビ番組は絶対、リアタイで見たい」といったことが、自分にとって大きなことに思えるとき、それは、日常だ。
 しかし、この日常は、簡単に崩れる。揺さぶられる。かき消される。元旦の地上波で、多くの正月番組が吹っ飛んだように。

探し出してすがりつく

 もしも自分の日常が粉砕されたときは、その破片でもいいので、探し出してすがりつきたい。子どもがお気に入りの縫いぐるみを抱き締めるように、大人だって、なにかにすがりついて生きてもいい。
 私は情報遮断して、本を読む時間を作る。本を読むことは、私にとっては日常であり、同時に些末なことでもあり(読んでも読まなくてもいい本がたくさんある)、なんといっても手っ取り早いのだ。
 それでも破片にすがりついたところで、気持ちが乗らなくてなかなかいつもの読書モードに入れない。そりゃそうだ。こうしている間も、大きな余震が起こり、どこかが津波に襲われ、あるいは火災が発生している。テレビでそれを見たからといって、私にはなにもできることがないのに。
 ああ、この本を手元に置いておいてよかった、と思うこともある。そこに流れている文字が呼び覚ます空間を想像できれば、わずかな時間かもしれないが自分にとっての日常に触れることができる。

自分が変容していく

 ところが、とても大切な点がある。
「元には戻れない」のである。
 自分にとっての日常は、最初は気付かないかもしれないが、間違いなく変容してしまっている。たぶん、半年ぶりに渋谷の街へ行ったときと同じぐらい、いやそれ以上に、いま目の前にある日常は過去の日常とは違う。
 問題は、「ぜんぜん変わってないじゃないか」と思えるぐらいの鈍感さを手に入れることかもしれない。実際には変わっていても、「大したことないよ」と言えると、変容してしまった日常の中にいる自分を肯定できるかもしれないから。
 これが肯定できないと、ますます自分は苦しくなってしまう。
 結局は、いま目の前にある日常こそが、自分にとっての日常だと納得する、呑み込むことで、変容してしまった日常を肯定できるのではないか。
 もし、それが出来たとしたら、その瞬間に私自身が変容を遂げたことになるだろう。
 外見で変わる人もいるかもしれない。髪をばっさり切ったり、ヒゲを伸ばしたりするかもしれない。あるいはヒゲをばっさり切ったり、髪を伸ばすかもしれない。とにかく鏡の中にいる自分を変えてしまわないと、自分の変容を呑み込めない。そう思ったとしても不思議ではない。
「お前、ぜんぜん変わらねえなあ」と言われたとしても、実際には大きく変わっているんだ。その前に楽しめたことが、その頃と同じ意味で楽しめているわけではない。事後の自分として楽しんでいる。元には戻れない。
 こうして私は、やがて過去の自分がどんな風だったのか、思い出せなくなるだろう。
「お前、変わったな」と言われたとしても、こっちは以前の自分を覚えていないのだから、「変わってないよ」と言い返すことになるだろう。なにもかも、ちっとも変わっていないんだ。これが私だ。これが私の愛する日常だ。なにも変わっていないのに、どうしてそれがわかってくれないのか。
 それは、すでに私が変わってしまっているからに違いない。
 
 


 

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