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179 居心地の問題

成人しても出て行かない子

 なんでもかんでも社会問題化するつもりはないけれど、親になってみると「この子もいつか成人して家を出て行くのだろう」と期待することは、なにも理不尽なことではない。淋しさもあるかもしれないが、期待もするのである。子がいなくなった家は、たぶん、居心地はよくなるからだ。
 以前に見ていたドラマ「コタツのない家」でも、「出て行く」と言いながらも出て行かない家族たちの話だった。
 家族もそれぞれに事情があり、それぞれに考える「居心地」がある。誰かの居心地の良さは、誰かの犠牲の上に成り立っていることが多い。家族とはそういうものだ、なんて言っちゃえばオシマイだけど、そもそも都会の住環境においては、2LDKとか3LDKとか、部屋数の限界が低く設定されていて、「家族が増えたから広い家に住みたい」と思っても、簡単ではない。結果的に「いずれ子どもは出ていくのだから、それまでの辛抱」と思ってしまうことだってあるだろう。
 ところが出て行かない。あるいは一度は出て行ったものの、モロモロの事情で戻って来てしまう。そうなると生活環境を巡る問題は頻発する。
 想像するまでもなく、60代、70代の人の生活と、30代、40代の生活は違うのである。例えば、朝起きる時間、夜眠る時間、風呂の時間がバラバラになっていく。それをもし揃えようとすると、お互いにかなりの妥協が必要になってくる。
「こっちも我慢しているんだ」「わたしだって我慢してるのよ」的な気持ちが、言葉に出すかどうかは別として、家族の中に常駐することになる。
 子ども部屋がいつまでも子ども部屋のままとなり、そこにオジサン、オバサンが住む。
 こうした現象は日本だけではないらしい。『「子供部屋おじさん」が合理的なのかは、実は深い問いだ』によれば、「米国や英国で、親と同居する若者が増えている」とのこと。

 こういう呼び方がいいのかどうかわからない。しかし、もしかするとこの問題は(というほど社会問題にしたいと私は思わないけど)、かつて巷間で囁かれていた「小さいおじさん」問題からすでに始まっていたのではないだろうか。

 2000年頃から、小さいおじさんを見たと称する人たちがタレントなどにもぽつぽつと現われる。さらに「おじさんと同居している」発言をしたタレントも登場(わかってます、これら「おじさん」の意味がまるで違うのでひとくくりにしてはいけないんだけども)。
 それとほぼ同じくして友人や知人のことを「妖精」と呼ぶ例も出てくる。成人しても結婚せず童貞・処女のケースを「妖精」と呼ぶ人もいる。そのほか、どうも私たちは気づくかどうかはともかくとして「妖精」に囲まれて暮らしているらしいと、まことしやかに言う人たちもいるぐらいだ。

我が家の妖精

 その妖精が我が家にもいる。すでに年齢は人間換算で40歳。独身。子ども部屋おばさんである。この娘、二度ほど一人暮らしをしている。そのどちらも、大きな問題を生み出したあげくに、自分の元々いた部屋(子ども部屋)に戻って来てしまう。強い帰巣本能がある。
 一人暮らしで生じた問題は、基本的に経済である。一人暮らしになると、必要以上におカネを使ってしまう。カードで気ままに買い物をしてしまい、部屋には物があふれ、借金が増える。働いても働いても支払いに追われ、とうとう家賃も払えなくなる。
 結果、子ども部屋へ帰るしかなくなる。
 仕事はしている。月給もそこそこ得ている。友達もいる。これまで買い漁った品々をメルカリで売っている。コンサートにも行く。イベントにも行く。趣味の集まりにも行く。酒も飲む。文句も言う。
 母と娘の関係は、さまざまな小説やドラマで描かれているように、男からは「謎」である。極めて親密、極めて辛辣、極めて激烈。それでいて、こちらが口を挟もうとしても、お断りなのである。ムリに介入すると、手痛い目に遭うのはこちらだけで、母娘はニコニコと買い物に出掛けたりする。
 幸い、母と娘ともに、父をそっとしておいてくれている。自分たちの輪には直接介入させないけれども、いざという時の切り札には使いたいのだろう。父は中立でなくてはならず、呼ばれもせずにクビを突っ込んではいけない。それによって、お互いの心地よさはある程度、守られるからだ。
 ときどき、こちらが居候なのではないか、私が子ども部屋オジサンなのではないか、と思うこともあるけれど、もちろんそこまで他人行儀ではないので、こういう「家族」もありだろうと割り切っている。
 もしもこうした状況こそが、居心地を良くしているとしたら? その結論を出すことは保留しておこう。

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