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43 流転の記

父母の代でついたクセ

 世の中には、長く同じ地域で生活し、代々そこで生きて行く人たちがいる。一方、どういうわけか、「故郷はここだ」と言い切れず、いろいろな地域で生きていく人たちがいる。
 私は後者だ。
 そもそも父(94歳)は兵庫県の相生からバスで20分ほど、歩くと2時間まではかからないが、そこそこ歩く距離にある漁村の生まれだ。幼い頃、私は何度もそこへ行った。中学生になると、昔、父が毎日歩いたという道を歩いてみたりもした。いまも親戚はその近辺に住んでいる。
 確か8人兄弟の末っ子で、4人が女、4人が男。長男は結核で若くして亡くなった。父のすぐ上の二男は勉強がしたくて陸軍兵学校へ入学したのだが、その後戦車兵学校へ移り沖縄戦で戦死した。女が多いのでつぎつと嫁いでいく。長女が結婚した相手は大手製鉄所に勤めていて、その関係で横浜の鶴見に転居していた。末っ子の父はその姉の口利きで、日吉にある会社へ就職した。工作機械の会社だ。
 そのため若くして横浜へ移った。
 母(89歳)は、母の父が満州鉄道の職員だったことから、大連で生まれハルピンで育った。終戦後に引き上げて神戸市内に住む。もともとそこに縁があったからだ。母は8人兄弟の二女で、男が5人、女が3人。長女はハルピンで結核にかかり、氷川丸で長崎に引き上げてきたがそこで亡くなった。
 神戸のその家は、祖母の言う「省線」(つまり国鉄)のガードの近くにあり、裏はアパートにして貸し出し、横は魚屋に貸し、その隣は洋服の修繕をする夫婦に貸していた。祖父は体を悪くして終戦より早く亡くなったのだが、祖母は亡くなる直前までそこに暮らしていた。魚屋のニオイを嗅ぐと、それを思い出す。
 共通の親戚の紹介で父母は出会い、お見合いで結婚したため、母は横浜に住むことになった。
 横浜は1950年代に住宅地を開発しており、その新興住宅地に一戸建ての家をローンで買った。私はそこで産まれ育った。

地域にとらわれない

 大学を出るまで、結局、そこにいたのだが、その後、高田馬場にひとり住まいもしたが、業界紙の記者となったときは再び横浜の実家に戻った。
 その後、妻と出会って蒲田に住むようになり、一時的に横浜の実家で二世帯で暮らしたこともあったのだが、仕事の関係と娘の大学の関係で台東区に住むようになった。すると、父母も横浜の一戸建てを売って、台東区に引っ越してきた。スープは冷めるかもしれないが、そこそこ近い場所で暮らしている。
 引っ越してきてはじめて知ったのだが、父母は横浜の一戸建てのあったあたりをそれほど気に入ってはいなかったのだった。私は生まれ育った場所なので好きも嫌いもないのだが。
 妻は青森出身で、名古屋、東京と居住を変えていて、やはり出身地に戻る気はないという。
 一時、いずれ青森に引っ越して暮らそうか、と話をしたこともあったのだが、「やっぱりやめた」といまはその考えはないらしい。
 どこかに骨を埋める、といった発想は、この家族にはそもそもないのかもしれない。
 あるいはよく「終の棲家」といった言葉があるように、それもあまりこだわりがないのだ。

コケが生えない

 「転がる石には苔が生えぬ」ということわざがある。
 コケが生えないことが、いいのか悪いのか、よくわからないけど、このことわざには「いい意味」と「悪い意味」がある。
 悪い意味としては、いろいろやっているうちに時間切れとなって、結局はなんひとつ物にならないままに終わることだ。
 いい意味としては、いろいろやっているうちに時間が経っていき、いつもフレッシュな感覚で生きていることだ。
 もう、そうなってしまったので選択肢はないのだが、私は後者でありたいと思う。
 仕事までも転々として、実際、「大成」にはほど遠い私である。きっとずっと大成などしない。日々、転がり続けるのだ。
 これはフローであってストックではない。確かに我が家にストックはない。代々伝わる家宝もないし、いざというときおカネにできそういな財産もない。サッパリしたものである。
 この先、どこに住むことになるのか、正直、まったく見えていない。いまのところ台東区にずっといるのだろう、と感じてはいるけれども、夫婦ともども転がる石のクセがついているのだから。
 
 
 


 

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