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3 別人として生きる幸せとは

『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)

 この数週間、『鹽津城(しおつき)』(飛浩隆著)を読んでいる。これは、「2022年文藝秋季号」に掲載された小説で、その号は『金原ひとみ責任編集「私小説」』という特集がメインだった。当時(2022年9月4日購入)、電子版はなくて、書店で購入した。久しぶりに書店に行くと、文芸誌のコーナーは健在で、しかも、どことなくそこだけ人の密度が薄い気がした。
 作品はいわゆるSF小説なのだろう。あり得ないような世界が広がり、共感しにくい人たちが登場し、想像しにくい状況の中にいる。そもそも鹵(しお)に覆われた世界があるとか記されていて、漢字も言葉も見覚えのないものが散りばめられ、正直、よくわからない。そして、いつものことながら、ぜんぜん読み終わらない。
 紙の本も読む。それはたいがい、傍らに置かれていて、思いついたら手に取って少し読み、また置く。かなり昔から、とてもおもしろい作品でも、いっきに読むことはない。終盤になったらいっきに読むこともあるが、たいがいはあと数行でも、途中で離脱する。
 だから、積ん読ではないものの、ちょい読の本があちこちにある。
 文芸誌を最初から最後まで全部読んだことがないけれど、たまたまこの『鹽津城』に引っかかってしまい、読んでいる。
 そして、ふと思うのだ。この世界に共感する自分がいるとしたら、それは本当の自分だろうか、と。

映画『ある男』と『転職の魔王様』

 映画『ある男』は、平野啓一郎原作。石川慶監督。向井康介脚本。たまたまこれを夜に見た。WOWOWでやっていたものを録画してあったのだ。冒頭の文房具店のシーンですぐ魅せられて、その後は、別人になる話を見せられた。
 別人になること。自分の人生を変えたい気持ち。他人になり済まして得た幸せは幸せなのか。
 この映画を見ていて、テレビドラマ『転職の魔王様』の9話を思い出す。引きこもった男性をどう社会へ復帰させるのか。このドラマのテーマの一つが、「傷を負ってもやり直せるのか」である。
 映画『ある男』は、別人にでもならない限りやり直せない。いや、別人になることでやりの直せた。『転職の魔王様』は、そんなことしなくても、やり直せる、とする。もっともこの9話は、かなりの難易度の高い話であり偶然性に頼ったファンタジー的な部分を感じさせる世界だったので、これを見た人が「よし、やり直そう」と思えるかどうかは別問題だ。
 私はこの二つの作品を通して、難しい問題は、難しいのだ、という当たり前のことを再認識した。それは、難しいSF世界に共感できる自分を創り出すのと同様に難しい。

難しい問題は簡単には解決しない

 一時期、難しい問題を簡単にできる、という話が世の中に横溢していた気がする。いわば「問題解決型ビジネス」みたいなもので、どんな難問でも、シンプルに考えたら「ほら、こんなに簡単じゃないですか」みたいにしてしまえる、と考えられていたことがあった。
 私自身、「そういう本はできませんかね」みたいな話を受けたり、「そういう本を書けますよ」という著者に話を聞いて記事にしていたことがあった。そんな経験から言えることは、「とっかかりをわかりやすくすることはできる」。しかし「難しい問題を簡単にしようとすると、それはもはや別問題」である。
 自分の人生を変えたいという人がいて、だったらどうするか、と考えても、これは難問なので簡単ではない。とっかかりぐらいはわかりやすくできるかもしれないが、それを実行する当人にとって、大変さはあまり変わらないだろう。取り組む気にもなれなかったことに、取り組むきっかけになったのだから、それはそれでいい、と考えることもできる。だけど、それは、むしろ取り組まなかった方がよかったことかもしれないではないか。
 それこそ他人になりすますぐらいのことをしないと、解決できないかもしれないことがあったとしても、実際にそれをやってしまうと、むしろ問題を増やしてさらに難しくしてしまうのではないか。

それでも幸せならいいのか?

 映画『ある男』では、結婚して子どもまでつくったし、長男もニセの男を父親と慕っていたショックが待ち受けている。わずかな期間でも「そのときは幸せだったからいい」と慰めることはできる。
 となると、喩えは悪いけど、犯罪で手に入れたカネで短期間、王侯貴族のような暮らしができたり、借金を返済できたりすれば、それも「幸せ」ということになるだろう。
 正面から触れてはいけないのかもしれないが、犯罪によって幸せが一時的にでも手に入り、一瞬でも幸せがあれば一生を肯定的に思えるのだとしたら、法治国家として、そして倫理的に極めて危険な思想と見なされるかもしれない。が、それは人の気持ちなので、国家と言えどもその考え方を取り締まることはできないし、すべきではない。間違った幸せだ、と主張したところで視点が違うだけかもしれない。
 間違った幸せでも幸せならいい、と考えたとすれば、どうなるのか。世の中はとんでもないことになるのか?
 そこでふと顔をあげて、どこか街中のカフェ(最近は行かないのだが)へでも行ってみればいい。いま視界に入る人たちの何人が「正しい幸せ」を享受し、何人が「間違った幸せ」に浸っているのか、わかるだろうか?
 私自身、ペンネームを生み出したとき、それは別人格になるのだから、いわば架空の人物になりすましていることになる。いまのところ、それによる幸せはあまり感じていないのであるが、かといって不幸とも言えない。見方によれば幸福感に浸りきっているのかもしれない。その酔いのようなものがこの文を書かせているのかもしれない。たとえ間違った幸せであったところで、それでいい。
 
 




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