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海賊が駆け抜けた島々へ (愛媛県今治市・広島県尾道市)|ホンタビ! 文=川内有緒

作家の川内有緒さんが、本に動かされて旅へ出る連載「ホンタビ!」。登場人物を思うのか、著者について考えるのか、それとも誰かに会ったり、何か食べたり、遊んだり? さて、今月はどこに行こう。本を旅する、本で旅する。

 本州の尾道から四国の今治までの70キロをつなぐしまなみ海道。島から島へとジャンプするような爽快なドライブで、私の頭の中には、松任谷由実の『ルージュの伝言』が流れていた。ズンチャチャズンチャ……とふと車窓を見ると、見慣れない形状の島がある。小島全体が、こんもりと盛り上がり、まるで古墳のようだ。

 もしかして、 あれが「海城うみじろ」⁉

 はるか中世の時代、この芸予げいよ諸島には30以上の〝海城〟が点在していたと伝わる。築いたのは、かつてこの海を支配した海賊たちである。

 というわけで、今回会いにいくのは「日本最大の海賊」と呼ばれた村上海賊。手にする本は、海賊研究の第一人者・山内 譲さんの『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』である。海の武将・村上武吉たけよしの姿を、地理や古文書や遺構などから鮮やかに浮かび上がらせる一冊だ。

[今月の本]
山内 譲 著
瀬戸内の海賊―村上武吉の戦い【増補改訂版】』 (新潮選書)
戦国時代、織田信長、豊臣秀吉を翻弄し、瀬戸内海を支配していた「村上海賊」。激しい潮流の海に浮かぶ小島を根城に、彼らはいかに生き、戦ったのか? 海賊研究の第一人者である著者が、膨大な古文書と最新調査で、海の武将たちの実像を浮かび上がらせる一冊。巻末には『村上海賊の娘』の著者・和田竜氏との対談を収載 *本文中太字の箇所が本書からの引用です

 カリブの海賊などのせいだろうか、現代で「海賊」といえば、交易船などから金品を奪う略奪者というイメージが定着している。しかし、瀬戸内海における海賊の活動は多岐にわたり、実は「海の安全を守る」というポジティブな役割も大きかった。

 海賊には、少なくとも四つのタイプがある。即ち略奪者としての海賊=土着的海賊、反逆者としての海賊=政治的海賊、安全保障者としての海賊、水軍としての海賊がそれである。

 ふーむ、なるほど! と思いつつも、安全保障者とはどういうことなのか?という疑問も浮かぶ。

「村上海賊の全盛期は戦国時代で、あちこちで戦いが行われていました。現代のように警察の取り締まりなどもないので、船で旅する人々は、自分の身は自分で守らねばなりませんでした」

 そう語るのは、今治市村上海賊ミュージアムの学芸員、松花まつはなつみさんである。

学芸員の松花菜摘さん(右)と川内さん

 電車も車もない時代の交通手段といえば船が主流だった。瀬戸内海は九州と本州を結ぶ海上交通の大動脈である上に、芸予諸島は複雑な潮流が渦巻く海の難所でもある。そこで村上海賊は、自分たちの縄張りを通る船から通行料を徴収する代わりに、安全な航海を保証するというボディガード/水先案内人を務めたという。

大島北部のカレイ山展望公園から、能島〈のしま〉村上氏が居城とした能島城跡を望む。取材当日はあいにく小潮だったが、能島の周囲は潮流が渦巻く難所。こうした天然の要塞ともいえる地の利を活かし、海賊たちは中世の瀬戸内海航路を支配した。尾道~今治をつなぐ芸予諸島には10以上の海城跡が残る

「安全な航海を願う人々は通行料を払いました。村上武吉を『日本最大の海賊』と呼んだポルトガル人宣教師のルイス・フロイスも、『しょ』と呼ばれる村上家の紋章入りの通行許可証を手に入れて旅をしました」(松花さん)

能島村上氏が通行料兼警固料を支払った者に与え、航海の安全を保証した「過所旗」。村上氏の家紋ともいうべき「上」の字がすえられている(山口県文書館所蔵)

 とはいえ、俺たちは通行料なんか払わないぜという人々もいたようだ。もちろん見つかれば海賊たちからの容赦ない報復措置を受ける。たとえば、すえ晴賢はるかた配下の船団が通行料を払わずに関所を突破したという「関所やぶりボコボコ事件*」。すぐに海賊衆に待ち伏せされ、フルボッコにされた。狭い海峡と潮流を知り尽くした海賊たちから、逃げ切れるわけがなかった。

*松花さんが考案した呼称です

 もう少し詳しく書くと、村上海賊は、因島いんのしましま来島くるしまを拠点にした三家に分かれていて、それぞれの縄張りも異なっていた。三家は一枚岩ではなく、時には結束し、時には敵として戦うという複雑な因縁で結ばれた関係であった。そんな村上家の中でも特に有名なのが能島村上氏の当主・村上武吉で、今回の書籍のほか和田竜さんのベストセラー小説『村上海賊の娘』にも登場した。

大島の村上海賊ミュージアム前に建つ能島村上氏の当主・村上武吉像。『村上海賊の娘』の主人公・景の父親だ

 村上海賊ミュージアムの窓からは、武吉が拠点とした能島を見渡すことができる。高低差もあまりない三角形の小島で、これで本当に広い海を掌握できたのだろうか?

村上海賊にまつわる貴重な古文書や出土品を展示する村上海賊ミュージアム ☎0897-74-1065

「実際に島に渡ってみるとわかりますが、本当にまわりがよく見渡せる場所にあるんですよ」と松花さんは言う。周囲の潮の流れは早く、海が天然の要塞になっているのだそうだ。

 ちょうどお腹が空き始めた私は、次なる目的地として定めた尾道市の因島に向かった。因島では、当時海賊が食べたという「水軍鍋」を食べられるのだ。

 先に書いた通り、海賊の四つ目の活動が、軍事活動である。戦乱の世のなかで、「ほうろく火矢ひや」など、火薬を用いた海の戦闘を得意とする海賊を味方につけられるかどうかは戦の勝敗を決めるとも言われ、時代の流れのなかで海賊たちはあちこちの援軍につくことになった。出陣の前夜はかがりを焚いて、酒を飲みながら鍋を食べたと伝わっている。

 水軍鍋の特徴は「八方の敵を喰う」という意味をこめて、タコが入っていること。他にも瀬戸内海の海の幸がふんだんに入っている贅沢な鍋だが、タコが予想以上のインパクトを醸し出し、なかなか忘れ難い食事になった。

因島のホテルいんのしまにて「水軍鍋」を豪快に食す。名産のタコをはじめ、鯛や穴子など瀬戸内産の魚介をふんだんに使用。食事のみ5,500円~、2名以上で要予約(写真は4人前) ☎0845-22-4661

 ちなみに「水軍」という呼び方は江戸時代以降のことで、古文書によれば当時の海賊は自分たちを「海賊衆」と呼んだ。だからこの鍋も、本当は「海賊鍋」が正しい名称なのかもしれない。           

 翌朝は、船に乗って能島を見にいった。大潮ではない日だが、複雑にうねる波間を進む船は大きく揺れた。動力のない船で行くのは相当の航海技術を要したことを実感できた。こうして海賊の時代を想像しながら旅すると、現在の穏やかな瀬戸内海とは異なる荒々しい景色が浮かんでくる。本書には「海賊の世界を歩く」という章もあるので、それを見ながら城跡や歴史ある集落などをめぐるのも楽しそうだ。

ミュージアム前の能島水軍桟橋から船に乗り、潮流体験クルージングへ! 能島城跡の岩礁には舟を係留するための柱穴が残る
大潮の時には、能島の周囲には最大10ノット(時速約18キロ)にもなる潮流が渦巻く。乗船料一般1,500円 ☎0897-86-3323(能島水軍) 写真提供=能島水軍

 広い海を一手に掌握していた村上海賊だが、輝ける時代は長くは続かなかった。ついに天下を統一した豊臣秀吉が海賊禁止令を出したのである。それにより通行料の徴収は禁止され、活動の柱を奪われた海賊たちは、大名になるか、大名の家臣になるか、農民になるかという切ない選択を迫られた。そのあと、村上武吉や息子たちがたどる運命も興味深いので、ぜひ本を読んでほしい。

 旅の最後に、村上海賊が信仰していたおおしま大山祇おおやまづみ神社に寄った。境内の奥にある宝物館には、多くの刀剣や甲冑かっちゅうが展示され、かつての武将たちの姿を彷彿とさせる。その一角には216年をかけて詠み継がれた法楽ほうらく連歌れんがもひっそりと残されていた。村上海賊には、文化人としての顔もあったようだ。

大山祇神社へ。大山積神は山の神・農業の神だが、『伊予国風土記』には「大山積の神、一名を和多志の大神」とあり、渡し、つまり航海の神様でもあることから海賊が信奉したという ☎0897-82-0032

 来島村上氏の当主・村上通総みちふさが戦の出陣の直前に詠んだという句を紹介しつつ、旅を終わりたい。

──夜半にたつ雲や嵐のはらふらん

文=川内有緒 写真=荒井孝治

川内有緒(かわうち ありお)
ノンフィクション作家。米国企業、パリの国連機関などに勤務後、フリーの作家に。『バウルを探して』(幻冬舎)、『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』(集英社インターナショナル)など著書多数。

出典:ひととき2023年5月号

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