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芭蕉の“ボーイズラブ”の真相に迫る|対談|小澤實×磯田道史#2

俳人・小澤實さんが芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、俳人と俳句と旅の関係を深く考え続けた二十年間の集大成芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)が、好評発売中です。
俳句の魅力、芭蕉の魅力、旅の魅力について小澤さんがゲストと語る対談の3人目は、歴史学者の磯田道史さんです。
テーマは、前回から引き続き芭蕉の“隠密説”を掘り下げつつ、“ボーイズラブ”の実態にも迫ります。芭蕉研究と歴史学の第一人者同士が語り合う、芭蕉の知られざる姿をお楽しみください。

台所役人から建設技術者、俳諧師に

磯田:芭蕉は、まず津藩藤堂家の重臣の台所役人として歴史に登場します。戦国武将として有名な藤堂高虎がいますね。その従弟で家老だった藤堂新七郎しんしちろう良勝よしかつという人がいました。この人は勇ましい。質実剛健で、わらでちょんまげを結った、などと、俗謡でうたわれた人です。大坂の陣で戦死しました。その息子が、侍大将の良精よしきよです。芭蕉はこの藤堂新七郎家の食事をつかさどる台所役人として伊賀上野に現れました。

小澤:その藤堂新七郎家で俳諧にも出会いました。芭蕉は、二歳年長だった嫡男の良忠よしただ、俳号蝉吟せんぎんに仕え、一緒に俳諧を学びはじめる。しかし、蟬吟は二十五歳の若さで急逝し、芭蕉は職を失ってしまいます。

伊賀上野城

磯田:その次に、芭蕉は水道工事の測量をしたり、給与の計算をしたりする、数理に明るい建設技術者として江戸に現れました。幕府が綱吉の代になると、俳諧師として深川に庵を結び、旅行を開始する。しかも曾良という巡見使と関係を持つ。純粋に文学だけをやっているわけではないわけです。まあ現代の俳人にもいろいろな経歴を持つ方や、会社員の方もいらっしゃいますけど……。

小澤:いろいろなことをやって、生き抜かなければならなかったのでしょうね。

磯田:そう考えると、芭蕉の旅にもほかの意味があったように見えてきます。『芭蕉の風景』の取材をしているとき、何か感じたことはありましたか?

小澤:『おくのほそ道』の旅で、芭蕉は酒田(山形県)に十二日間滞在したのですが、その間に現地の門人が江戸へ向かうんです。あれは、ものすごく隠密性を発揮しているなと思いました。

磯田:庄内藩の芭蕉の門人ですか。誰だろう?
 
小澤:廻船問屋を営んでいた豪商、寺島彦助です。彦助は、芭蕉が到着した翌日、自邸に芭蕉を招いて酒田の商人たちと連句を巻き、その五日後に江戸へ立ったことが『曾良旅日記』に記されていて、これはおかしいと感じました。

磯田:確か芭蕉は、鶴岡から最上川を船で下って酒田に入り、門人のところに泊まって、「涼しさや」の句を彦助邸で詠んだんですよね。

涼しさや海にいれたる最上川 芭蕉

曾良著『俳諧書留』所載。句意は、最上川が海に入るこのあたりは、涼しさに包まれている。『おくのほそ道』所載の名句「暑き日を海にいれたり最上川」の初案[下巻93ページ]

小澤:そうです。彦助は詮道|《せんどう》の名で「月をゆりなすなみのうきみる」という脇句を付けました。そんな風雅なことをやっていたのに、すぐ五日後に江戸へ行く。不自然なんですよ。

最上川

『おくのほそ道』は諸藩観察の旅だった?!

磯田:『曾良旅日記』を確認すると、元禄二年六月一九日に、明日彦助が江戸へ趣くので書状をしたためたと書かれています。「翁より杉風さんぷう」とあるから、芭蕉から杉山杉風宛ですね。続いて「鳴海なるみ寂照じゃくしょう*、越人えつじん*へ遣被つかわさる」とあり、曾良自身も杉風に手紙を書いています。

*寂照:蕉門俳人の一人、下里しもざと知足ちそくの法名。本名は吉親。通称は勘兵衛、金右衛門。尾張鳴海(名古屋市緑区)で醸造業を営む。屋号は千代倉屋。

*越人:姓は越智おち。北越の人。名古屋に出て、染物屋を営む。元禄元(1688)年、芭蕉の『更科紀行』の旅に同行、名古屋の蕉風を拓いた。蕉門十哲の一人。

小澤:知足も越人も、名古屋蕉門の重要な弟子です。

磯田:尾張方面の手紙も託していると。芭蕉の人間的つながりというのも、なかなか面白いですね。小説家風にあえて穿った見方をすれば、幕府の重要な観察対象である東北諸藩を巡り終えて、書いた記録を手紙と共に杉風のもとに送ったということも考えられないこともない。

小澤:杉風が宛先になっているのを見ると、前回話に出た杉風の隠密的な性格があぶり出されてくるような気がしますね。知足への手紙を託したのは、彦助は鳴海宿の出身で、知足の親族だからだと思います。この知足がメモ魔なんですよ。なんでもかんでもメモしていて、それで芭蕉の住所がわかったりする。のんきに俳諧だけ楽しむのなら、そんなメモ魔になる必要ないですから、そういう筋の仕事もしていたんじゃないかと思っちゃいます。

鳴海宿

磯田:鳴海宿も船が出入りするところですね。親戚だからか、知足は寺島彦助とよく連絡を取り合っていますが、手紙の内容を、ざっと見た感じでは、大抵は商売の話のようです。知足は、節約家だったからか、もらった手紙を裏返して日記を書いているので、それをひっくり返して読んだら、いろいろな情報がこれから出てくるんじゃないかと思います。

小澤:そして、彦助は、幕府御米置場*を管理する酒田湊の浦役人を務めていました。

*御米置場:江戸時代前期の商人で海運・土木事業家の河村瑞賢が、寛文12(1672)年、幕府の東北諸領から最上川の舟運などにより集められた年貢米(御城米)を西廻り航路で酒田から江戸へ廻送するために設けた米置場。

磯田:酒田湊の浦役人は、幕府の御城米を管理して、江戸へ廻送する仕事を担っていましたから、彦助は譜代大名の庄内藩酒井家に非常に近い商人ですね。

小澤:尾張の鳴海から日本海側の遠いところに行って、御城米を管理する豪商になっているというのも怪しいですよね。

磯田:電話がない時代、一番情報が早く伝わるのは船乗りたちで、湊町には船から情報がリアルタイムで入ってくる。そういう仕事を芭蕉の門人たちがしていて、情報も持っているし、お金も持っているし、譜代大名とのつながりも持っている。芭蕉は東北諸藩を一通り回ったところで、東北の外様大名を監視する出先機関である酒井家の御城米を廻す係の寺島彦助と句会を開いて、その後すぐ彦助は江戸に向かって出発する。これを穿った目で見ちゃダメなんでしょうかという話ですね。

小澤:そうです。彦助は、幕府の任務を帯びて酒田に派遣されていたとしか考えられない。

磯田:船と俳諧師。この関係は、興味深いですね。

美少年は見逃さず名前をつける

小澤:その一カ月後、芭蕉は山中温泉に行くのですが、そこで美少年に俳号を贈っているんです。取材していて、芭蕉のそういう面を知るのも楽しかったですね。

磯田:泉屋の若き主、久米之助ですね。十四歳の久米之助に、芭蕉は桃妖とうよう、桃で妖しいという俳号を与えている。

桃の木のその葉散らすな秋の風 芭蕉

『泊船集』所載。「加賀山中、桃妖に名をつけ給ひて」という前書を付し、久米之助に贈った挨拶句。久米之助を桃の木に例え、その大成を願っている。

小澤:『おくのほそ道』には菊の句を入れているんですけど、中国古代、周の穆王ぼくおうの寵童だった菊慈童きくじどうの故事を想起させる。久米之助は美貌だったのではないかと感じました。

山中やまなかや菊はたをらぬ湯のにおい 芭蕉

『おくのほそ道』所載。山中であるなあ、菊は長寿の花といわれているが、ここでは菊を折ることもない、効能あらたかな湯の匂が漂っているという句意[下巻129ページ]

山中温泉の鶴仙渓

磯田:そういえば、何年か前に、京都の書画屋さんで、「芭蕉が書いたもんだと思う」と言われて一枚見せられたことがあって、解読してみたら、芭蕉が尾張の俳句の天才少年に梅舌ばいぜつという俳号を与えたものでした。

小澤:それは初耳ですね。バイゼツは、どういう字ですか?

磯田:梅に、口の中のベロの舌です。「えっ」て思うじゃないですか。それで、芭蕉はこの梅舌の俳句を句集に採っているのか探したら、『荒野あらの』の中に何句かありました。それが、なんかやたら朝の句が多いんです。天才少年といわれた子が、どうにもエロティックな句を詠んでいる。芭蕉のボーイズラブということを考えるときに、この梅舌が怪しいと思って、ほかにも資料が出てこないか気にしています。

小澤:そうですね。梅舌の句、「袖すりて松の葉契る今朝の春」「うぐひすに水汲みずくみこぼすあしたかな」。この「袖すりて松の葉契る」「水汲こぼす」、衆道の匂いがぷんぷんしますね。美少年は見逃さず名前をつけていくんですね、芭蕉は。それで近寄せるというようなところがあるんじゃないでしょうか。

芭蕉の時代はBL黄金期

磯田:でも、考えてみると、芭蕉はキャリアの出発自体が、藤堂新七郎良忠の恋人だったような気がするんですよね。

小澤:年も近いですし、一緒に俳諧を学んでいたり、とても親しい感じがします。主従を越えた仲だった可能性はありますね。詩人の高橋睦郎さんもこの点を詩集『深きより』の中で強く書かれています。

磯田:藤堂氏が治めた津藩は関西圏を代表するマッチョな藩で、ものすごい体育会系。討ち死になんて軽く見ていて、関ヶ原や大坂の陣でも死闘を繰り広げています。実際、良忠の祖父も戦死している。日本の安土桃山から関ヶ原ぐらいまでは、強力な武器はせいぜい火縄銃ですから、殿様が討ち死にしないために人間の盾になってくれる玉よけの忠義な命がけの男たちが必要だったんです。それで、たぶん戦国末期の小姓というものができた。藁でちょんまげを結ぶようなマッチョな男たちが、殿が「行くぜ」と言ったら、一緒に敵陣に突入して死んでいく。非常に深い結びつきがありました。

小澤:そのマッチョな武士世界の空気が、まだ孫の代ぐらいで残っているときに、芭蕉は台所用人として、藤堂新七郎家の嫡男にお膳を持っていったりする係だった。側近く仕えていたら、当然、恋愛感情が生まれていたと。

磯田:元禄のころは、顔立ちの美しい若い男の子を振袖で着飾らせ、大名屋敷の玄関に受付係として置いて、お茶を出させることが普通の習慣になっていました。「あの大名は美少年に豪華な衣装を着せて置いてあるからすごい」とか、「美少年を置いてないあそこの大名はダメだね。集められないんだ」とか見られる世界だったんです。いまでも歌舞伎の中には残っていて、小姓が座っていると、悪役の隈取りをした男がいきなり腕をつかんで美少年へのセクハラをするシーンがあったりします。

小澤:芭蕉が生きていたのは、男色的なものがまだ強い時代だったんですね。

磯田:だんだん平和になって、朱子学が広まり儒教化が進んでくると、男色は弾圧されていきます。江戸時代の初め、元禄ぐらいまで百年続いた華やかな戦国・江戸初期のボーイズラブ時代が終わっていくんです。

小澤:そうなんですね! 江戸時代には、ずっと男色文化が続いていたと思っていました。新選組なんかもマッチョな集団で、幕末の映画やドラマでボーイズラブが描かれることがありますけど……。

磯田:幕末にもあるにはありますが、江戸時代の初めの百年に比べたら、本当に減っています。もう藩のシステムに組み込まれている状態ではないですね。江戸の半ばまでは制度化されていました。容貌がよくて、芸もあって、頭もいい男の子たちが、殿様が小さいころからまわりに配されていた。殿様がちょっと目を向けただけで、いまどう思ったのか、トイレに行きたいのか、タバコがほしいのかとわかるような、EQ(情動指数)の高い人たちが、のちに登用されて側用人となり、藩主の意を汲んで活躍するような状況がありました。

小澤:では、芭蕉の時代は、ボーイズラブの黄金時代だと考えていいわけですね。いろいろ勉強になります。

次回に続く
>>>芭蕉が愛し、育てようとしたもの

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年(1956)、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。このほど『芭蕉の風景』(ウェッジ)で、第73回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞した。

磯田道史(いそだ・みちふみ)
歴史学者。1970年、岡山県生まれ。近世中後期の藩政改革を専門とし、近年では天災(地震、津波)や感染症などの歴史研究も行う。慶應義塾大学大学院博士課程修了。静岡文化芸術大学教授などを経て、2016年、国際日本文化研究センター准教授、21年4月から教授。堺雅人主演で映画化された『武士の家計簿』(新潮新書)など著書多数。

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