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オスマン帝国的聖地 エルサレム案内【前編】|イスタンブル便り

この連載イスタンブル便りでは、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、イスラエル・パレスチナへの旅をお送りします。

ここ数日急に冷えて寒くなってきたイスタンブルで、灼熱だったエルサレムのことをずっと考えている。

この秋に初めてイスラエルを訪れることになったのは、ヨーロッパ共同体の国際プロジェクトで、ハイファ大学に招待されたからだ。「旅するモノたち」と題されたその学会は、 ひとではなく、モノが場所を移動する(旅する)ことで、置かれる文脈が変わり、使われ方や形や意味を変える、その実態とあり方について、各国から集まった専門家が議論するものだった。京都の祇園祭で披露される欧州製のタペストリや中東の絨毯、あるいは茶の湯で珍重される「唐物」の、日本文化の中での意味、を考えるとわかりやすいかもしれない。わたしは、オスマン帝国の宮殿に所蔵される日本美術工芸品が、オスマン的文脈のなかで、どう受け入れられ、意味を変えていったか、という話をした。

コロナで世界じゅうが停止したあと、「移動」が、再び注目を集めている。
そういうことを実感した学会だった。そういえば、わたしにとって、コロナ後初めて物理的に外国に移動して参加した国際的な集まりとなった。

世界遺産の都市アッコの城壁から地中海を望む。向こう側にハイファが見える。
ハイファ湾の北に位置するアッコ(エークル)は、青銅器時代から現在まで途切れなく居住が続く世界最古の都市のひとつ。現在も、住民はユダヤ教徒、イスラーム教徒、ドゥルズ派、バハイ教徒など多彩で、イスラエルで最も民族的多様性のある都市のひとつである。
十字軍時代の遺構の城塞には、さらに古い古代ギリシャ時代の基礎部分も残っている。

地中海を望む港湾都市ハイファは、湾を挟んで対岸の古代から続く世界遺産の都市アッコ(エークル)に比べて、比較的新しい。オスマン帝国時代、特に19世紀に発達した街である。そしてわたしは、ハイファまで行くならば、ぜひエルサレムに足を延ばしたいと考えていた。
学会は木曜日に終わり、参加者の多くは翌日の金曜日、車で2時間ほどのテルアビブ空港まで移動してそれぞれ帰途に着くはずだった。わたしは滞在を延長し別行動だったので、自分で移動しようと思っていた。
ところが、出発の一週間ほど前のことだ。事務局からメールが届いた。

「金曜日は、すべての公共交通機関が停止になるので、ハイファからエルサレムまでの鉄道はありません。空港まで学会からバスを出しますが、本当に自分で移動するつもりですか?」

すべての公共交通機関が停止?
目を疑った。何か事件でも起こったのだろうか、それともコロナの新しい感染防止対策?
慌てて調べてみた。他でもない、ユダヤ教の安息日「シャバット」だった。通常シャバットは金曜日の日没から土曜日の日没までの丸一日とされる。だが、ハイファからは前日の金曜日朝から丸二日、本当に鉄道もバスも営業していない。
そういえば、以前クズグンジュックのシナゴーグを訪れた時に、アーロン・ベイからシャバットの話を聞いたのを思い出した。労働や移動、機械の使用や車の運転も基本的に禁じられている。
しかし、ここまで国家的規模で宗教的戒律が守られているとは、想像すらしていなかった(だが反対に、そのおかげでイスラエルでは自家用車が必須で、大変な車社会だと聞いた)。
さて困った。

「文化的ショックを経験するのはいつも新鮮な喜びですが、これにはお手上げです。何かいい解決策はないものでしょうか?」

事務局に返事を書くと、テルアビブ国際空港からなら金曜午後2時過ぎまで鉄道の便があるという。そこで、学会のバスにわたしも乗せてもらい、そこから乗り換えることにした。
それが、わたしの一人旅の始まりだった。

* * *

エルサレム旧市街北側に位置するダマスカス門。この辺りはムスリムの住民が多い。
物や人がひしめく旧市街の幅の狭い街路。

エルサレム旧市街、ダマスカス門に行き着いた途端、心を奪われた。
堂々たるスケール、とりどりに広げられた日傘、物を売る人々、行き交う人々。その雑踏、その煩雑さ、その色彩、その形、その匂い、そのなんでもありな感じ、ひとことで言うなら、その渾然一体。
城壁の外の新市街とは、まるで様子が違っている。
ぜんぜん違う世界、ぜんぜん違う時間に紛れ込んだような、軽い酩酊を味わった。

エルサレム旧市街の街路は、オスマン帝国時代そのままの道幅。

魅力的な街は数多くある。だが、心を奪われる、というのは、そう多くはない(わたしの場合)。今はイスタンブルに強く結びついているわたしの人生だが、もしもこの街をちがう時に経験していたならば、もしかしたら、ぜんぜん違う人生を生きていたかもしれない。エルサレムは、ほんのひととき、人をそんな気にさせる街だ。

色とりどりのお菓子、焼き立てホカホカのパン、生き生きと人々の生活が息づく。

最初に入った場所が、ダマスカス門だったせいもあるかもしれない。
事前に地図を眺めただけでは、分からなかった。エルサレムは、城壁に囲まれた旧市街自体が、ひとつの建造物のようだ。一言でいえば、イスタンブルのグランド・バザールの巨大版が丘全体を覆っているような感じである。街路は幅が狭く、多くは屋根に覆われ、有機的に入り組んだ迷路のようだ。外壁に近い一部以外、自動車の乗り入れはできない(できる幅ではない)。

カイロでもダマスカスでもイスファハンでも、そしてもちろんイスタンブルでも、歴史都市といっても大都市は必ず近代化の洗礼を受けている。つまり、ある時点で、鉄道や自動車の乗り入れのために、道幅を広げ、直線にする工事を強いられている。 しかし、エルサレム旧市街はそうでない。要するに、オスマン帝国時代のスケール感が、そのまま保たれているのだ。

忠太が歩いた道幅、そのままなのか!
その気づきがなおさら、タイムスリップ感を高めた。

* * *

イエスの象徴的な墓とされる聖墳墓教会。キリスト教徒の聖地である。

「建築」という言葉を作った明治の建築家、伊東忠太は、1904年秋、この街を訪れた。日露戦争のさなか、当時クドゥス(アラビア語で「聖なる神殿」の意)と呼ばれたこの街は、オスマン帝国の一都市である。イエスの墓とされる聖墳墓教会で、 感激のあまり涙し、地面にひれ伏して墓石に接吻する信者たちを目の当たりにした忠太は、共感できず疎外感を書き留めている。このあたり、二年遅れでここに「巡礼」したキリスト者徳富健次郎(蘆花)とは、温度差がある。

ハラーム・シェリーフには、「岩のドーム」の他にも、様々な聖人の墓、小さな礼拝堂が点在する。
忠太が唐草文様の日本への伝搬について重要なインスピレーションを受けたエル・アクサー・モスク。スルタンの勅許を持っていた忠太は中に入れたのに、21世紀にその跡を辿ったわたしは残念ながら入れてもらえなかった。
ムスリム以外には立ち入りが禁止されているエル・アクサー・モスク。開いている窓の隙間からのショット。

忠太の視線は冷徹だ。ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」に額を当てる信者たちにも違和感をもち、イスラーム教の聖域ハラーム・シェリーフではオスマン政府当局から厳重に守られていて、あらかじめ許可申請がなければ入ることはできない、と述べている(スルタンの勅令許可証を持っていた忠太でさえ、難儀した)。

ユダヤ教の聖地 いわゆる「嘆きの壁」の向こうに見える緑の部分がイスラーム教の聖域ハラーム・シェリーフ。ちなみに「嘆きの壁」は、現地ではヘロデ王の神殿の西壁を意味して、たんに「西壁」と呼ばれる。左手に金色の「岩のドーム」が見える。
「嘆きの壁」のハラーム・シェリーフ側。ヴォールト天井が続くこのアーケードを見たとき、図らずもトプカプ宮殿の回廊を思い出した。スケール感と、その向かいにある糸杉の庭の造りがそっくり。

建築家としては宗教建築を多く遺している忠太だが、個人としては自分には信心というものがない、と書いているくらいだから、わりとドライである。むしろ、「聖地巡礼」を口実にロシアやフランスなどの列強が進出し、広大な自治領を持って存在を誇示しているのを、危機感とともに克明に記録している。

たとえばイエスの象徴的な墓とされる聖墳墓教会は、キリスト教のなかでも正教やカトリック、新教、聖教、古代キリスト教などさまざまな宗派・会派の共通の聖地とされる。それぞれが主張する権利や正統性を調整して、1857年に教会内での定位置がオスマン政府当局によって決められた。つまり、各宗派・会派が、教会内に自分のブースを与えられた、ということになる。イスラームの盟主としてのオスマン政府の肝煎り、という但し付だが、各会派はこうしてバランスを保っていた。そしてオスマン帝国時代のこの合意が、現在でも守られている。

聖墳墓教会、壁には十字軍時代に刻まれた幾つもの十字架が。

誤解を恐れずに言えば、今回初めてこの教会を訪れたわたしは、キリスト教各会派のこの「棲み分け」ぶりに、ショーケースのような印象を受けた。訪れる側からすると、一度に色々な宗派の特徴が観れて面白い。違いもわかるし、あらゆる会派が集まるこの場で自派を良く見せようとする競争のような雰囲気も、そこはかとなく感じた。
見方を変えれば、エルサレムという街じたいも、そうだろう。キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教という三つの宗教が、世界に自らを発信するショーケースと見ることもできる。そしてたぶん、どの切り口に肩入れしながら見るか、によって、この街の印象は色を変える。
明治時代に忠太が感じた疎外感とは、そこに日本の伝統宗教が入っていなかった、という点だったかもしれない。そして現代のわたしは、「巡礼」ではない、観光旅行者の無責任さから、それぞれの視点、それぞれのあり方を理解しようとする姿勢は可能なのだろうか、などと夢想するのである。

(後編へつづく)

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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