目の前のことにただ精一杯だった(映画監督・山下智彦)|わたしの20代
学生時代は、毎日のように京都の河原町で3本立ての映画を観て、サークルで8ミリの自主映画を撮っていました。就職活動はしたんです。でも、父(東映の任侠映画で知られる山下耕作監督)が撮っていた「竜馬を斬った男」の現場を覗きに行ったり、やっぱり映画が気になっていたんですね。高校時代、父が連れ帰ったスタッフが大勢うちで雑魚寝して、寝ぼけた人が母に「奥さん、風呂!」って。なんちゅう奴や、人の家で……と呆れながらも、そういう人間関係が僕には面白かった。
将来について父に相談したところ、独特の言い方でアドバイスされました。曰く「人をして語るに任せよ」。外野の言うことなんか放っとけってことでしょうか。そこで自分なりに考えて、大映系の「映像京都」にお世話になることにしました。
初めての現場は、父が監督した「アナザー・ウェイ D機関情報」。それからすぐに五社英雄監督の「226」についたのですが、新人助監督の僕の仕事は、毎朝鉄パイプに滑り止めテープを巻き直すこと。映画に文句を言ってくる人を追い払うために監督の椅子の横に置いておくんです。とんでもない現場でした。
その後、中村吉右衛門さんの「鬼平犯科帳」が始まり、サード助監督(*1)を務めました。第1話「暗剣白梅香」のカチンコは僕です。今思い出しても、ヘタやった(笑)。実は、クランクイン3日前にバイク事故を起こして、歯が折れて顔は腫れ、カチンコ(*2)を打つ前に言う「シーン〇〇、ナンバー送ります」が「なんわわほふいまふ」になっちゃって大変でした。でも、吉右衛門さんはじめ、山田五十鈴さん、北林谷栄さん、島田正吾さん、素晴らしい方たちの演技を間近で見られたのは勉強になりました。
失敗はいろいろあります。当時、撮影所の暖房は昔ながらの一斗缶の炭、通称「ガンガン」だったので、撮影後、めざしなどを焼いてよく飲んだ。あるとき、絶対に遅刻しないように、撮影所のセットの布団で寝たんです。ところが、撮影は別セットの布団で行われていた。当然、大遅刻です。怒鳴られるのはいいんですよ。無視されるのが一番怖かった……。仲代達矢さんの「風車の浜吉捕物綴」、渡辺謙さんの「御家人斬九郎」、助監督でたくさんの作品に関わりました。大島渚監督の「御法度」では、病後の監督が大声を出すとき、ガタガタ揺れる車椅子を支えるのが僕の役目でした。今、僕が「よーい、スタアト!!」と大きな掛け声を掛けるのは、大島監督の影響です。
20代は目の前のことに精一杯で、自分が監督になるとは考えていませんでした。初監督作品は2002年、役所広司さんの「盤嶽の一生」。この仕事が面白いと思えるようになったのは、2006年放送の「天下騒乱 徳川三代の陰謀*」を監督したころです。父の言葉に通じますけど、監督は人の意見を素直に聞く力と、それを消化した上でやりたいことをやり通す力、どっちも必要になる。その葛藤の面白さがわかってきたんですね。
僕の世代、現場はフィルムからビデオ、デジタルへと変化してきました。新しい機材や技術は有効に使えばいい。それでも根本の作り方は変えちゃいかん。後輩に道を作るためにも、現場で教わったことを大切に、模索を続けていきます。
構成=ペリー荻野
出典:ひととき2022年8月号
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