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「論語読みの論語知らず」になってはいけない|齋藤孝が読み解く『学問のすすめ』

明治初年に刊行された福澤諭吉の『学問のすすめ』には、現代を生きる私たちの心にもダイレクトに響く言葉が散りばめられています。ここでは、教育学者としておなじみの齋藤孝先生の新著図解 学問のすすめ―カラリと晴れた生き方をしよう(ウェッジ、3月18日刊行予定)から3回にわたり抜粋してお届けします。今回のテーマは「学問とのつきあい方」です。

すすめ書影

≪原文≫
「学問とは広き言葉にて、無形の学問もあり、有形の学問もあり。(……)いづれにてもみな知識見聞の領分を広くして、物事の道理を弁へ、人たる者の職分を知ることなり。」
「文字を読むことのみを知りて、物事の道理を弁へざる者は、これを学者といふべからず。いはゆる論語よみの論語しらずとはすなはちこれなり。」(第二編)

≪現代語訳≫
学問とは広い言葉で、精神を扱うものもあるし、物質を扱うものもある。……いずれもみな知識教養の領域を広くしていって、物事の道理をきちんとつかみ、人としての使命を知ることが目的である。
文字を読むことを知っているだけで、物事の道理をきちんと知らない者は学者とはいえない。いわゆる「論語読みの論語知らず」というのはこのことである。

文字が読めて本を読むだけでは学者ではない
ものの道理がわかっているのが学者だ

学問には有形と無形とがある。先人のいうことを聞いたり、書物を読んだりすることは前提だけれども、ただ文字を読むだけではしょうがない、とまずいっています。

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文字は学問をするための道具であって、たとえば家を建てるときにノコギリなどが必要なように、もちろん文字を読むことは必要だ。これは当たり前のことだが、ただそれだけで、物事の道理がわかっていない者は、学者とはいえない、と断じています。

「論語よみの論語しらず」とは、『論語』は読んでいるけれども、『論語』の教えはわかっていないということです。ある程度書物が読めるけれども、物事の道理がわかっていないとすれば、それは学者ではないですね。

よく「学者馬鹿」とか「世間知らず」とかいわれますが、物事の本質を忘れてしまって、重箱の隅をつつくようなことばかりやっていると、それは、物事の道理をわきまえていないことになるので、学者というに値しません。

「学者」とは「学ぶ者」「勉強する人」と広い意味でとらえたほうがいいでしょう。

常に自分をアップデートして新しくし
現代の問題を解決するために学問を活用しよう

「学者」としての私が心がけるのは、常に知識をアップデートして、現代の状況に対して問題意識をもって学問を活用していくということです。

たとえば、コロナ禍の現在では、学校の授業やビジネスでもオンラインにせざるを得ない状況です。では、この機会にオンラインのコミュニケーションに習熟しようと研究してみると、資料提示や画面共有も即座にできるし、自宅の資料などもすぐに活用できる。授業回数も増やせるし、さまざまなグループのディスカッションも可能で、けっこう自在でフットワークも軽いとか、オンラインのほうが便利なこともいろいろあるのがわかります。ひとつのマイナス面が、知恵というものによってプラスに転化される。

現代の問題に対応できるのが、「学者」なのです。私たちはみな学者であって、福澤諭吉塾の塾生なのだ、と考えましょう。それは、常に何か問題解決に向かう思考をもとう、ということになり、つまり知識だけでなく、ものの道理を理解することになるでしょう。

——『学問のすすめ』ではさらに、学んだことを生かして世の中の役に立てる「実践」の大切さが繰り返し説かれています。もっと詳しく知りたい方は、ぜひ本書をご覧ください。

ウェッジ様 齋藤孝 写真 正面 ブルーネクタイ

齋藤孝(さいとう・たかし)
明治大学文学部教授。1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。専門は、教育学、身体論、コミュニケーション論。『1日1ページ、読むだけで見につく日本の教養365』(文響社)、『友だちって、なんだろう?』(誠文堂新光社)等、著書多数。

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