見出し画像

「役に立たない言語」を勉強しないというひとがつくる社会が待ち受けているもの―ウクライナ語、スウェーデン語、アイルランド語を例に

もし、明日、日本という国はそのまま残り、日本人という民族もそのまま残るものの、「日本語」という言語がなくなるとしたら、どうやって私達は暮していけば良いのか途方に暮れると思う。街中で日本語を話していると罰金や懲役刑があり、街中の看板もすべてなんらかの別の言語に書き換えられ、たとえば「いただきます」や「木漏れ日」、あるいは「よろしくお願いいたします」、「先輩」といった、日本語特有の表現を使うことができなくなったら、かなり生活に困るのではないだろうか。それを英語(あるいはあなたが得意な言語)に2秒以内に訳しなさい、と言われても困るものがある。ぜひコメント欄などでチャレンジしてみてほしい。意外と難しいと思う。

日本語という言葉は、日本人の多くが日常的に使っている。私達が日本人であるためには、日本のパスポートを持っている(日本国籍がある)ことといった法的な問題だけではなく、日本語を使っているから日本人だと意識している部分もあるだろう。あのひとは日本語を上手に話すから日本人で、あのひとは日本語を話さないからおそらく別の国のひとだろう、といったことは割とよくあることだと思う。それくらい「日本人」と「日本語」は近い関係にある。それが「こんなに美しい言語を大事にしている民族である日本人としての誇り」といった文脈で使われることもあれば、あるいは「こんなにややこしい言語を器用に使っている変な民族」といった文脈で使われることもあるが、あるいは「日本語といった日本人以外使わないようなマイナー言語に固執しているくせに、ろくに外国語を学ぼうとしない愚かな国民」といった文脈で語られることもあるだろう。ただ、「日本人」というものを、左側や右側のひとが、あるいはageかsageといったバイアスのかかった文脈で語るときに、あるいはもっと日常的に日本人や日本について語るときに、日本語ということは必ずかかわってくる。

ウクライナ語という言語は、ウクライナの国語だが、ソビエトの時代などには何度も禁止令が出され、ウクライナ語を使う機会が大幅に減った。そのため、ウクライナ人でもウクライナ語を話さないひとがいる。そして、大概のウクライナ人はロシア語も話せる。

ただ、最悪のシナリオとしてウクライナがこの戦争(というよりは侵略)に負けて、ロシアの支配を受けるようになると、間違いなくウクライナ語を使う機会は減る。そうすると、ウクライナ語が失われてしまうこともあるかもしれない。ただ、幸運なことに現在にはインターネットがあるから、インターネットを使ってウクライナ語を学ぶことはさほど難しい方法ではない。

ウクライナの「国民的詩人」と呼ばれるタラス・シェフチェンコ(1814~61年)というひとがいる。彼は20世紀のウクライナ語が危機に瀕した時代に愛され、ウクライナの英雄のひとりだ。実際に、当時ウクライナ人の友人によると、彼の写真を飾っていた家は割と多いという。正教会(ウクライナ正教会)の信仰が強い国で、イエスキリストの像の隣に置かれていたこともあるという。それくらいウクライナ人にとって誇らしく大事な詩人である彼は、ウクライナ語を守ろうとするために役立っていた。

このような他国からの侵略を受けなくても、言語は案外簡単になくなってしまう。

北欧諸国では、英語が話されることが多い。私が何度もこのnoteに載せているスウェーデンでは、英語がかなり通じて、娯楽も英語で行われる(たとえば、スウェーデン人なのに英語で音楽を作り、歌う)ことが多い。このような傾向はドイツにもあるが、北欧諸国のほうが強いと思う。

突然だが、ここに英語の聖書(創世記の一部)を引用する。

In the beginning God created the heavens and the earth.

Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, and the Spirit of God was hovering over the waters.

And God said, “Let there be light,” and there was light.

God saw that the light was good, and he separated the light from the darkness.

God called the light “day,” and the darkness he called “night.” And there was evening, and there was morning—the first day.

これをGoogle翻訳でスウェーデン語に訳す。

I begynnelsen skapade Gud himlarna och jorden.

Nu var jorden formlös och tom, mörker låg över djupets yta, och Guds Ande svävade över vattnet.

Och Gud sade: "Varde ljus", och det blev ljus.

Gud såg att ljuset var gott, och han skilde ljuset från mörkret.

Gud kallade ljuset "dag", och mörkret kallade han "natt". Och det blev afton, och det blev morgon, den första dagen.

英語からノルウェー語に訳す。

I begynnelsen skapte Gud himmelen og jorden.

Nå var jorden formløs og tom, mørke var over dypets overflate, og Guds Ånd svevde over vannet.

Og Gud sa: "La det bli lys," og det ble lys.

Gud så at lyset var godt, og han skilte lyset fra mørket.

Gud kalte lyset ”dag”, og mørket kalte han ”natt” Og det ble kveld, og det ble morgen, den første dag.

こう見ると、英語とスウェーデン語やノルウェー語はかなり違っているのに対し、スウェーデン語とノルウェー語は案外似ているところがおおいのがわかるだろう。

スウェーデン語やノルウェー語がわからなくても、案外日常生活は苦労しない。むしろ英語ができないと結構苦労する、英語で大概の娯楽は事足りるし、日常生活を送るのにスウェーデン語やノルウェー語ができないとすごく支障をきたすといったことはないだろう。それが彼らの共通見解だ。

また、アイルランド語もあまり使われなくなってきている言語だ。じゃがいも基金などの影響でアイルランドはイギリスの影響を受け続けているせいで、英語が社会に浸透しているため、「不便」で「マイナー」で「役に立たない」アイルランド語はなくなる危機にある。

アイルランド政府は必死になってアイルランド語を守ろうとしているが、そのためにアイルランド語がまだ残っている地域に「国内留学」をしたり、学校教育で教えたりしているようだが、生活でアイルランド語を使う機会はほぼない上に、アイルランド語を話せるひとはたいがい英語も話せるので、結局英語で事足りてしまうといった実情がある。アイルランド人の友人によると、「アイルランドが一切できなくてもアイルランドで生きていける。少なくとも実用的な意味で、アイルランド語を学んで役に立つことはない」と言っていた。

役に立たないから、捨ててしまおう。そういったことは、娯楽のない生活と同じだ。

じゃあ、美味しい食事は生存の役には立たないから、エンシュアを経腸栄養でとればいい。

じゃあ、何枚も服なんていらないから、みんな裸になって生きよう。

じゃあ、みんなトイレなんていらないから、そのへんに排便すればいい。

極端なことを言っているのはわかる。ただ、突き詰めて考えると、「マイナー言語をやるのは実生活の役になど立たない無駄なことだからさっさと辞めて、世界では英語だけを使おう」と動くということは、「生活には無駄が多いから、必要最低限の衣食住だけこなそう」といっていることともつながってくるだろう。

私達の生活というのは案外余白が多いものだ。24時間のうち8時間を労働、8時間を睡眠に使ったとして、のこりの8時間は余白だ。そこで役に立たないテレビを見てリラックスしたり、好きな服を買ったり、好きな本を買ったり、自分にご褒美だと言って大好物を食べたり、そういったことで「生きているなあ」「幸せだなあ」「あしたからも頑張ろう」となるのではないだろうか。

極端な話を続けよう。

家なんかなくても路上で寝ればいい。あるいは、テントでも買えばいい。あるいは、半畳くらいの狭い家を建てて、そこで雨をしのげばいい。

服なんて裸になるのが嫌なら各アイテム1つでいい。下着も上着もコートも1枚ずつでいい。あるいは、洗う手間を考えて各アイテム2個あればいい。

食べ物なんてエンシュアを経腸栄養すれば事足りる。どうしても口からとりたいというのなら、ウィダーインゼリーとか、カロリーメイトとか、あるいはもうすこし美味しいコンビニのおにぎりでいい。

ただ、私達はそんなことをしない。

圧迫感を感じない程度にある程度広い家をほしいと思う。

着られないほどたくさんの服を買い、それをある季節に使わないことだってある。

世界中で美味しい食べ物があって、レシピがあって、食べ方がある。

それは、結局人間が余白を大事にする生き物だからだ。

もちろん、「社会の役に立つから、○○語を学ぶ」というのも、立派な学習目的だと思う。どんなきっかけであれ、新しいことを学ぶのは美しいことだ。

ただ、「役に立たないからこそ、趣味として楽しい」という語学オタクの意見もある。オタクというのは、いつだって「効率化」の対極にいる。グッズなんて1つあればいいところを、3つ買う。DVDを持っているのに、ブルーレイを買う。Youtubeで音楽が聴けるのに、CDを買う。そんな一見非効率なことが、経済を、そして社会を回すのに役立っている。

言語を学ぶことで、経済が回るといったことはあまりない。せいぜい白水社さんのニューエクスプレスプラスが売れるだけだ。言語というのは、じゃあなんの役に立つのだろう? 言語は文化に密接している。そしてその文化というのは、社会の底に根付いていて、社会に彩りを与えている。それはすべて余白の部分だが、本も音楽も映画もない生活なんてとっても退屈なものになるだろう。そして本にも音楽にも映画にも、ことばが必要だ。そのことばのバラエティーが広いほど、その表現できる世界は多彩になる。

たとえば、平等な社会であるスウェーデンのことばであるスウェーデン語では、先生にも友達にもHej(発音は、ヘイ)という挨拶を使う。

たとえば、カトリックの影響が強いアイルランド語では、Dia dhuit(発音は、ディア グイト)という挨拶が「こんにちは」という意味になる。これは直訳すると。「神様のご加護がありますように」という意味だ。

挨拶ひとつとっても、こんなに国の文化を反映している。新しいアプリケーションをスマートフォンにインストールすることで、スマートフォンの可能性が広がるみたいに、新しい言語をあなたの中にインストールすることは、新しい思考回路と新しい性格をあなたに与える。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

留学資金などに使います。ご支援よろしくお願いします。 また、私が欲しい本を集めたほしいものリストも公開しています。 https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/9WBR0K7KWYX8?ref_=wl_share/