白紙(しらかみ)一枚の心と体
※画像は 東洲斎写楽/メトロポリタン美術館さまより拝借いたしました。ありがとうございます。
さて、タイトルから、いかなるところから文章を起こそうか。始まりはそもそも、私の妄想というか、思念というか、その分厚さのようなもの。その類の人間であること。そこから、禅というものに触れて、自分なりに考え、実践したこと。それは即ち、「己(自我、思念)を薄くしていくこと」これだと。要するに世界との距離を縮めていくこと。
これには勇気(courage)が要った。そもそものところ、私にはそれに補う形での直感というものがあり、そのレベルでは世界との距離はむしろ「近かった」。ユングでいえば「思考ー直感」タイプ。しかしながら、私自身がずっと直面してきたのは「感情」ならびに「感覚」であり、ここを磨くことによって、まあ、五十年近くかかったが。
そこで得られた実感のようなものが、この「己を薄く」していくことである。即ち「心」も「体」も一枚の白紙の表と裏のようなもので。ユングのいう「融合」「結合」いうものでしょう。改めてユングも読みたい気持ちもありますが、まあそれはそれ。
禅というのは、日常の所作のなかにあります。そして、たとえば部屋にいろいろなモノがあるとして、そのモノと、自分とは無縁ではない。寧ろそこで出会っている、ユングのいう「感覚」ですね。そして、それを丁寧に所作することによって、「感謝」が伴う。「感情」を均していく。それは人に対してもそうで。慈しむ、というとなんか澄み透っていますが、私は単に「愛する」という。慈愛、も結構だけれど、もっと多義的に・カオスに。愛する。
愛する対象がいるということは、この「モノ」との出会いのなかにも、愛というものを感じ取ることが出来る。花鳥風月などといい、また詩歌における、自然を詠むといった営為。これはひとえに愛というものの浸透をもって、世界の、又拡がりがあろうかとも。それは己を弱く、小さくする作用でもあり、それも又白紙一枚です。人間は強く、優しく。あれば良いだけではなく、弱くて・卑小でもある。それを仏教では慢心といいますが、なに、慢とは人間の謂いではないかと。
長くなりました。書籍を。と思ったけれど、今回はあえて、これを。ニーチェとかハイデガーとか、いいなと思ったけれど。この、胡散臭さが、禅のおもしろさとも取れるので。
入手しづらいのか。じゃあ、もう一冊。
じゃ、またね。
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