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【よなよな哲学】されど人間。もっと気軽に愚痴っていこうや。

天気が変われば人の心だって、ちょっとくらい変わるもんです。変わるもんなんだ、そういうもんだって思うだけでも少しだけ心が軽くなる気がしています。

今日は久々の雨にやられていました。朝起きた瞬間に分かるんですね。「あ、今日はダメな日だ」って。なんか頭重いし、なんか食欲ないし、なんか、とてつもなく、働きたくない。

天気ってまじで侮れないですよね。外が暗いと心まで暗くなってくる。雨の日の駅ナカってすごく重たい空気が流れている気がするし、スマホに向いているはずのみんなの視線が、地の底まで沈んでいるような感覚にもなる。

しかもこういう日って思考も悪い方向にゴロンゴロン転がっていきます。あの人の発言は実はこういう意味で、それは私がまずかったのではないか。てかやっぱ会社に属するの向いてないわ、いつやめようかなー。将来漠然と不安だし、この先生きてて楽しいことあるんかな、ないだろうな。

普段の自分なら考えられないような闇を抱えてしまうんです。ずっしりと重たいので、身体も思うように動きません。やっとの思いでデスクに座り、PCを起動させるのでした。命からがらデザイン作る人をやっていました、今日は。


環境に左右されない人なんていないと思うのです。前日にちょっと心が疲れるイベントがあったとか、大切な人とと喧嘩してしまったとか。いきなり土砂降りになったとか。心が雨模様な日に、自分の機嫌をとろうとして、気丈に振る舞っている人を見ていると、こちらも辛い気持ちになってしまいます。

いいじゃないですか、辛い日は辛いです。
しんどい日は、どう頑張ってもしんどいんです。
いつもの自分じゃなくていいじゃないですか。

辛い日に仕事や学校に行くだけで大したもんじゃないですか。別に休んだって死にゃしないわけです。でも行ってるんです。それでもう十分頑張ってるんです。

お互いに許しあっていけばいいと思うのです。「あ、この人今日は少し疲れてそうだな」とか「なんか嫌なことがあったのかな?」って思いやっていけばいいのだと思います。

とはいえ、もちろん、機嫌が明らかに悪くて関係ない人にまで攻撃しちゃうのは、ちょっとおすすめはしません。自分自身が、あとからもっと後悔することになるからです。あーやめときゃよかったな、悪いことしたなって。

でも、いいのです。悪いことしたなって思えば、サクッと謝っちゃえばいいと思うのです。「機嫌悪くてごめんね、昨日ちょっと嫌なことあってさ」こういう会話を、もっと大人も子どもも関係なく、できる世の中であればいいのにと思います。先生だって、経営者だって、リーダーだって。関係ありません。ネガティブな感情を、もっと吐き出しても大丈夫な空間を、作っていけたらいいのになとしみじみ思うわけです。小学生の時にやっていた健康観察みたいに、「今日は元気もりもりです」「今日はちょっと気持ち下げ目です」ってみんながお互いに発信して、認識できたらいいのになと思います。

高校生の時、すごく好きな先生がいました。古典の先生です。面白い出来事があったのですね。修学旅行明けの授業の時です。

チャイムの音とともに先生が入ってくるのですが、明らかに足取りが重いんです。目線も地に落ちています。「なんだなんだ」とやや教室が騒がしくなりました。はじめの挨拶を終えたあと、先生はこう言うんです。

修学旅行が楽しすぎたもんだから、授業する気が起きません。今日はみんなと修学旅行の話をしたいと思っています

キョトン、でした。一瞬時間が止まったかと思うと、教室はすぐに笑いに包まれていました。なんだよそれ、先生楽しかったんだねウケる。同級生たちも大喜びです。

その後先生は、約30分かけて、修学旅行のどこが楽しかったかを語りました。生徒のトラブルが1度も起きなかったこと。ずっと行きたかった場所に他の先生たちと行けたこと。美味しいものを食べられたこと。

この先生、新卒の方ではないんですよ。もう50代くらいのベテランの先生です。修学旅行といえばトラブル続きで、今までろくに楽しめていなかったみたいなのです。ですが、この年だけは違った。楽しすぎて、今も余韻に浸っていて、授業にならないそうなんです。

めちゃくちゃ笑いました。最高だなと思いました。私たちも修学旅行気分がなかなか抜けない中で、先生が自らその空気感に入ってきてくれた。先生だって、疲れるんだ。楽しかったら余韻に浸りたくもなるんだ。先生である前に人間である、というのを実感したエピソードでした。今でも鮮明に覚えています。


数年前。「愚痴を言ってはいけない」空気感を一時期感じていたことがありました。明確な原因は分からないのですが、おそらくSNSが原因だったと思います。

好きなことで生きていく。
この言葉が潮流に乗り始め、好きなことや趣味を仕事にして生きている人達がSNSで積極的に発信をするようになりました。

今まで暗雲に包まれていた「社会」という箱に光が刺すような感覚が当時はありました。大人って本当は楽しい。仕事って実はこんな面白さがある。教員一家で、あまり社会に触れずに生きてきた私にとって、就活に少し希望を感じる瞬間でもありました。

でもその一方で、今の自分の仕事や学校生活に満足できず、愚痴をこぼす人達に対して怒りのような感情が湧いてきたのです。

愚痴をこぼすくらいならやめればいい。
もっと楽しいことを探せばいいのに。

そもそもどうして嫌なことに向き合っているのか理解できなかったのです。こんなにも生き方は自由で溢れているのに、どうしてそこに居続けるのか。当時の私には分かりませんでした。

でも、今なら思います。愚痴を言ったっていいじゃないですか。嫌なことがあったら吐き出して何が悪いんでしょうか。愚痴を言うくらいならやめろ、という究極理論を振り回してしまうのは、すごく危ないなと感じるのです。

時代柄、やめるという選択肢を取りやすくなったからこそ危ないのだと思います。少しモヤモヤとした気持ちを抱えると「やめる」か「続ける」の究極理論になってしまう。

グチグチ言ってもいいじゃないか。
とりあえず愚痴をこぼしながら
手を動かしてみよーぜ。

みたいな、曖昧さが本当はもっとあっていい。

そんな寛容さを自分自身にも、周りにも持っていたいなと思う今日この頃です。


今後の執筆活動やデザイン・アート活動の糧にさせていただきます。いつか絶対に恩返しするために。