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「余白」の処方箋

あらゆることがスルスル淀みなく進む時もあれば、流れが停滞してやや濁ることもある。それが人生だということは、20数年生きる中で誰もが身をもって体感することだと思います。


でもやっぱり、流れが停滞すると嫌な気持ちになるし、そこから離れたい、逃れたいとジタバタしてしまうんですよね。停滞期があるのもそれまた人生だと、余裕のある時は思えても、いざ停滞してみると「やっぱやだ!止まりたくない!はやく進みたい!」と思ってしまうもの。

私はそれを、第3次反抗期と呼んでいまして、最近その反抗期がまさに来ていたわけです。大人の反抗期ですね。あれも嫌だ、これも嫌だ、とりあえず心がスッキリとした状態に戻りたい!という叫びです。


何か明確に「これ!」という嫌なことがあったわけでもないのに、2-3週間くらいずっと気持ちが曇ったまんま。身体も重くて、仕事にも身が入らなくて、なんにも楽しくない。

今までの人生で、こういう期間は何度も経験してるのですが、原因がわからないってやっぱり心地よくないんですよね。なんだこれ?どうしてこうなった?と必死に理由を探しました。

不安とか辛さみたいな負の感情って、すぐに解決できるものもあれば、”今”向き合わなくてもいいものもある。それを頭では分かっていながらも、今回ばかりは居心地が悪すぎて、そんな呑気なこと言ってられねえ状態でした。


みなさんはどうなんでしょう?原因不明のモヤモヤに襲われた時って、どう対処してるんだろーと気になります。カラオケしたり瞑想したり、いわゆるストレス解消的な手段をとることでモヤが晴れるぜ!という人もいると思うし、修行僧のように徹底的に隠居生活を送る中で内省をする人もいますよね、きっと。

私の場合、いろいろやってみます。
これと決めず、本を読んでみたり人に話してみたり、1人でとことん考えてみたり。

さまざまな距離感からアプローチしてみるイメージです。人から直接もらう言葉は、今の自分には重すぎる。でも、本くらいの距離感なら目を合わせても大丈夫そうだ…ということもあるし、逆に、本の距離感が無機質すぎて、もっと温度や立体感のある言葉が欲しいと思う時もある。そういう時は人と話すようにします。

とにかく色々な手段を試す中で、より嫌な気持ちになることもあれば、ちょっと和らぐこともあるんですよね。1歩進んで2歩下がるを2週間くらいやってると、急にパンっと視界が開ける瞬間がくるのです。不思議です。いきなりまた、流れ始めるんです。心から身体に巡っている水流のようなものが。巡り始める。

今回の反抗期では、本がその大きなキッカケになりました。こういう時に出会った言葉って、多分今後忘れることはないだろうなと思います。それくらい大切なものになる予感が毎回ある。

この本でした。救世主。

自分が今、心から求めているのが余白であること。余白のとらえかたが、自分自身を苦しめてしまっていたこと。

それに気づかせてくれた本です。ほんと、一気に楽になりました。言葉の効能ってすげえや。

別に仕事の量が減ったわけでもないのですが、心は解放感で満ち溢れているので、この勢いでこの本の良かった部分とか刺さったところを書いておこうと思います。


余白の「余」は余分ではなく、余裕である

私は休日、予定を詰めるのが大好きな人間です。特に外に出る予定ですね。人と会ったり、自然に触れたり。普段フルリモート勤務なのもあり、とりあえず外に出ようぜ!となまった身体と五感を動かしたくなる。

仕事も忙しい方が嬉しいです。細かい不安とかをモゴモゴと考えている暇がないからです。手を動かし脳を動かし、失敗も成功もすごいスピードで経験する。そのスタイルが自分には合っていると感じます。

だから、生活におけるさまざまな「余白」は自分にはあまり必要ないと考えていました。余白があれば埋めていこうスタイル。どんどん経験していこうという、スーパー前のめり姿勢。

これは性格というか気質的なものだと思いますが、私は普段から頭の中でグルグルと考えが止まらなくなったり、自問自答が常に鳴り響いている状態です。昔からそうで、すごく悩んできた部分でもありました。

でもその分、内省や言語化の力、筋道を立てる力はすごい速度で洗練されていった自覚もあります。悩みでもあったけど、嬉しい副産物もあったという感じです。

とはいえやっぱり、意識していなくても内省をする癖がついていたので、生活の中に余白があると、すぐ考えに耽ってしまうのですよね。あーでもないこーでもない、とぐるぐるモヤモヤ考え続ける。

その時間を少しでも減らしたいと思って、生活から余白を消していたのだと思います。不安になるのは暇だからだ、という考えです。

自分自身のこの傾向は昔から根付いていたものですから、スタイルは変えなくていいと思うし、変えたいと思ったこともあまりありませんでした。

でもこの本を読んで、「余白」の定義だけは少しでも見直してもいいかも、と思ったのです。

生活から余白を排除するあまり、余白とは生きる上で必要のないもので、余分なもの。そういう考え方は、自分を苦しめている側面があったかもなーと思います。

なんて言うんだろ、今までのスタイルを無理に変える必要はない気がするけれど、余白とは余裕のことなんだ、決していらないものではないんだ、という見方を自分の思考の選択肢として置いてあげるのも良いなと思った。という感じです。


自分を守るために必要なのは、壁を作ることではなくて余白を広げること。

これ、おったまげました。
たーしかに!!!と叫ぶくらいに。

なんかね、今まで、自分が人から攻撃されたり、攻撃とまではいかなくても居心地の悪い言葉をかけられたら、とにかく自衛の意識から心をガチっとロックするのが当たり前でした。こいつは敵だ!心を守れ!と、心の周りに護衛が張り付いて、必死に守るような。そんなイメージです。

壁こそが自分を守る唯一の手段であり、それ以外の方法を知りませんでした。

自分を守るために必要なのは壁ではない、と
この本は言っています。余白が大事。

余白とは「私のコアとあなたのコアの間の空間」であり、人の意見や価値観は余白の中に居させてあげる。

苦しい時って、コアとコアの間の空間が、ほぼなくなっている時だと思うんです。コアがむき出しになってるから、攻撃が直接当たってしまう。心が裸の状態で攻撃を真正面から受け止めようとしているのに等しいです。

でもそれに気づかないから「私ってなんてダメな人なんだ」と自己否定に入ったり、過去の意思決定すら誤りだったと感じてしまう。

人の価値観や意見をコアで受け止める必要はないということなのだと思います。コアは、自分だけが知っている、なによりも大事な宝物。

この本でも書いてましたが、宝物はクッションで守ってあげないと、せっかくの美しさに傷が付いてしまいます。そのクッションこそが余白です。


余白の中で人間は、互いの気持ちを交わらせ、対話を重ねることでだんだんと共鳴に変わり、コアにもその振動が伝わり始める。これは決して悪いことではなくて、1度余白がクッションとして受け止めてくれた価値観を、コアが求め始めるサインなのだと思います。

これは本に書いてなかったことですが、私は、必ずしも余白の中で対話を済ませる必要はなくて、その中で深い共鳴があれば、コアつまり魂レベルで繋がり合うことができると思います。

とはいえ、最初からコア同士をぶつけようとすると、お互いに傷つくだけ。余白という空間を広くとっておいて、その中でまずは対話してみる。それで良いのだと思います。

壁を作るのではなく、余白を広げる。

壁を作ろうとすると急に身体が強ばる感じがしますが、余白を作るイメージだと、少し心に余裕が生まれてスッキリとした気持ちになる気がします。ちょっとした解釈の差ですが、この文脈が私にとってはすごく救われた言葉でした。


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決まった答えを求めなくて良い。曖昧さこそが余白であり、そこから意外性が生まれる。

これも、本を読んで改めて実感したことです。仕事でも大いに当てはまることだなと思います。

お客さんとの会話をどうしても「上手く進めたがる」傾向が自分にあって、やっぱりその背後には組織を背負ってる責任とか、お客さんを怒らせることへの恐怖心が渦巻いていました。

でもある時、すごく力を抜いて話してみたら、お客さんの物腰が急に柔らかくなった事がありました。「上手くやろう」ではなくて「そのまんま話してみよう」という転換です。

ある程度準備をしっかりしていれば、その先はもう自然に任せて力を抜いてやるのがいいんだろうなと思います。


ここ数週間続いていた反抗期に少しだけ日差しが注いできた感覚があります。まだ完全に抜けきったわけじゃないし、まだまだこれからも続く予感ですが…。今、この本の、この言葉たちと出会えて本当に良かったなーと思います。


今後の執筆活動やデザイン・アート活動の糧にさせていただきます。いつか絶対に恩返しするために。