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質問箱コラム #4:言葉の定義は、もっとあいまいで大丈夫。

☆このコラムは、質問いただいた方への手紙のような形で執筆していきます。匿名という特性上、質問者さんの状況や心の状態を、私なりに想像しながら書かせていただくことになります。

お互い顔も名前も知らない身です。書いてあることは真正面から受け止めず、そういう見方もあるかもね、くらいで流してもらえると良いかなと思います。


お盆でダラダラしていて質問箱の存在を忘れかけていた私です。久しぶりに開いたら質問が来ていて、びっくりしました。ありがとうございます。感謝です。

いただいた疑問に答えるにあたって、ひとつ大前提としてお話したいことがあります。それは、言葉の存在意義についてです。なんのために言葉は存在するんだろう?ということですね。

言葉とは、人間同士が何かを伝え合うためのツールです。もう少し具体的に言うと、言葉とは共通認識を持つためのラベルではなくて、イメージを共有し合うための一手段だと私は思っています。イメージでいいんです。全て伝わらなくていいんですね。こんな感じ、というのを共有するだけでいいんです。

イメージを伝え合う手段は言葉以外にもあります。例えば芸術です。音楽や絵画、彫刻、舞踊なども、自己表現のひとつになります。言葉では表せない感情を筆に乗せて表現するアーティストもたくさんいます。ピアノの音でなら自分の気持ちを出すことができるという人もいます。”伝える”手段は言葉だけではない、というのをまず覚えておく必要があります。

言葉は定義を含むものです。これが、芸術とは違う側面なのですね。人間同士でイメージを共有するために、定義が決まっているものが多いです。とはいえ、意味やニュアンスは使う人や場面によって変化します。子どもと大人の意味合いはまさにそれにあたると私は思うのですね。

社会の中では、あらゆる場面で大人と子どもが分類され、境界線が引かれています。公共交通機関の料金が代表例ですね。なぜはっきりと違いが存在するかと言うと、すべての人たちが心地よく暮らすための基準を作るためです。

子どもは、無限の可能性を秘めています。大人が必要以上に介入せずとも、勝手に学んで、勝手に成長する強い生きものです。でもね、社会の一員として生きていくためには、大人の力を借りなければいけない場面もたくさんあります。子どもは自分で自分の健康を守ったり、安全を確保するのが難しいです。もちろん、失敗して学んでいくのが1番良いのですが、死んでしまっては元も子もありません。だから、大人と一緒に行動することが求められます。彼らの命を守るためです。

子どもとは何を指し、どこまでが子どもと言えるのか。社会の中では、あらゆるサービスによって基準が異なりますが、大人と子どもをはっきり区別することで、それぞれの生命を守り、安心して暮らせるようにしているのです。


じゃあ、社会というシステムから離れた時。
大人と子どもにはどんな違いがあるのでしょうか。質問者さんが知りたいのはきっと、この違いについてだと思います。

地球的な目線で見ると、大人と子どもの違いは、明確に存在しないと私は思っています。

質問者さんが例にあげてくださっているものを見てみましょうか。冒頭でもお伝えしたとおり、言葉とはイメージを共有するためのものです。確固とした共通認識を持つためのものではないと私は考えています。

「大人な対応」「子どものような態度」という言葉も然りです。イメージなんです。大人な対応と言われてみんながイメージするのは、おそらくですが、感情<理性の状態だと思います。冷静さや論理的なイメージがありますよね。子どものような態度はその逆です。感情が勝っている状態です。無邪気さや素直さが垣間見える言葉です。

こんな風に、私たちがコミュニケーションをとる中で、似通ったイメージを共有するために、言葉は存在しています。だから、実の所は、違いは存在しないのだと思うんです。ちょっと分かりづらいですかね?事実と認識は違うということです。イメージを共有するために違いを作っているけれど、実際に明確な線引きは存在しないと私は思います。



ここで話を終わらせるのはなんだかもったいないので、私個人の認識・考えも共有させてください。

人間だれしも、大人と子どもの側面両方を持つ生き物だと私は思っています。子どもとは、自分を世界の中心に据えて、外側にエネルギーを飛ばす存在。大人とは、他者とともに在ることができるよう、距離感や自己表現の方法を調整する存在。子どもと大人の自分が協力し合うことで「自分」ができあがっているのだと思います。

大人になっても、子どもの自分を自覚する瞬間はよくあると思います。でも、子どものときに大人の自分を自覚することはあまりないかもしれません。

でも、あるんですよ。子どもの時にもしっかり大人の自分は存在します。その証拠に、私たちは葛藤します。幼い頃、友達と揉めて心がモヤモヤした時。「私はこう思う」「なんで分かってくれないの?」という気持ちとは裏腹に「なぜあの子は怒っているんだろう」「仲良くするにはどうしたらいいかな」という気持ちも同居することがあったかと思います。それこそが葛藤です。自分を中心としたエネルギーの流れとは別に、周りと調和していきたいという欲求のエネルギーがぶつかり合うのです。子どもの自分が勝ちすぎてしまうと、自己中心的になってしまいます。大人の自分が勝ちすぎると、他人の目線を気にしすぎて感情が抑圧されます。

だからこそ、協力し合うことがだいじなのです。子どもの自分と大人の自分が話し合い、どうやって手を取り合っていけるか。その話し合いこそが葛藤であり、手を取り合える状態こそが「自分らしさ」なのだと私は思います。子どもと大人の自分が協力体制を築くことで、私たちは自分らしくあることができるんです。

あなたがどんな意図でこの質問をしてくださったかは分からないのですが、私が同じような疑問を持っていたのは、大学生くらいだったと思います。言葉に対しての執着心と反発心が強かった頃です。

20歳になり、社会的には大人と呼ばれるようになったけれど、突然「大人である」ことを求められるようになる。それに対して反抗心があったのですね。周りの人間や環境に合わせて身を振りなさいと言われているようで、それに窮屈さを感じていたのだと思います。そんなのおかしい。自分の感情も大事にすべきじゃないか。大人になんてなりたくない。そんなモヤモヤとした気持ちが当時はありました。

そのモヤモヤが晴れたのは、大人と子どもの自分をしっかりと自覚できた時でした。両者の協力関係のおかげで、私は私らしくいられている。なんかバランスがおかしいと感じる時は、どちらかが強くなりすぎている時。しっかり話し合いをして、バランス感を調整してあげることで、「自分」に戻ることができる。そう強く自覚することができるようになったので、大人・子どもという言葉への反発心は薄らいだように思います。

ここでは、言葉はあくまでイメージを共有するもの、という前提がとても大事です。言葉に執着すると、言葉に支配されてしまいます。自分の持つ言葉の定義とズレたものを相手が見せてきたら急に反発心が生まれるのです。「〇〇とはこういう定義だ。そこから外れるのなら、〇〇とは言えない」のように、言葉の周りに壁を築き、少しでもズレを感じると壁の外に追いやってしまうんです。何度も言いますが、言葉はイメージです。ニュアンスは人によって異なります。それでいいんです。少し曖昧なくらいがちょうどいいんです。すべて言語化する必要はありません。

もしあなたが今、子どもと大人という言葉に振り回されているような感覚があるのなら、1度言葉への執着と向き合ってみるのをおすすめします。言葉の意味を自分で狭くしすぎていないか。こだわりを持つのは悪いことではありません。でも、それによって自分の首を締めてはいないか。それを確認してみるのも良いかもしれません。今よりも少し、楽になると思いますよ。


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