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倉庫とコンビナートの狭間に〜森田芳光監督『家族ゲーム』(1983)

 森田芳光監督が2011年に61歳で急逝して、今年は早いもので10年になる。映画『家族ゲーム』(1983)も、38年前の作品ということになる。

 森田作品のうちマイ・フェイバリットは、夏目漱石原作『それから』(1985)だったが、今回『家族ゲーム』を見返して、甲乙つけがたくなってきた。

 原作は、1981年のすばる文学賞受賞の本間洋平氏の同名小説である。

 2021年8月、コロナ感染が急速に拡大を続けており、またしても在宅時間が長くなってきた。そんな中、NHKの衛星放送を録画して、久しぶりに視聴したものである。

 『家族ゲーム』は、80年代のいわゆる“中流家庭“を舞台にした風刺劇である。核家族を題材としており、その雰囲気は根岸吉太郎監督の『ウホッホ探検隊』(1986)に少し似ている。ただ、小宇宙的な家庭を傍観して、その時代を映し出す作風は、映像の世界に限らず、現代日本文学では「第三の新人」の作家たちにも見られるもので、新規性があるものではない。そう、『ゴッドファーザー』もそうだが、「家族」は永遠のテーマなのである。

 全体を通して、家庭教師(松田優作)の怪演が際立つが、高校受験勉強中の中学3年生(宮川一朗太)のねじれたキャラクターも味がある。また、クセの強い父親(伊丹十三)は、少々変態じみていて面白い。由紀さおりは昭和の主婦そのもの。家庭を粛々と守るその姿には、かつてのわが母の影が重なる。戸川純、伊藤克信、松金よね子、白川和子、清水健太郎、阿木燿子などの姿が見えるのもうれしい。

 それにも増して、当方に昭和のイメージを呼び覚ますものは、受験生の家族の住む大規模な集合住宅と、それを取り囲む環境である。受験生の通学路は、倉庫街や殺風景な空き地を走る道路。高度成長終焉後の、いかにも殺伐とした日本の風景である。こんな場所が、東京のウォーターフロントあたりには確かにあった。受験生の兄である高校生(辻田順一)のガールフレンドの自宅からは、煌々としたコンビナートの夜景が見渡せる。眺望を無邪気に自慢する女の子。そして、単純にうらやましがる男の子。

 初めの方で、松田優作がボートで受験生宅を訪れるシーンは、『燃えよドラゴン』(1973)を連想させる。これは「戦い」の始まりか。

 映画『家族ゲーム』における家庭教師の指導の模様は、80年代初頭の当方に似る。自分が担当していたのも高校合格を目指す受験生。もちろん、松田優作のような乱暴な教え方はしていなかったが、進学を心配する父親と母親の気持ちは同様。映画にあるような茶菓や食事を提供してくれる受験生の優しい母親に、当方も日々接していたのだ。森田監督は、当時の典型的な家庭教師像をデフォルメして提示している。

 映画の中で受験生の通う中学校は、昨今とは様相を異にする。当方、最近公立中学校の授業を見る機会があったが、目に見える限りでは80年代初頭と比べてはるかに落ち着いている印象。「いじめ」があるとすれば、どこかに潜行しているとも想像される。約40年前は、暴力は今より露出していたような。しかし、同調圧力は今と同じ。容赦なき受験競争の中で流れに抗おうにも果たせず、押し流されてしまう者が大半であったろう。

 さて、80年代初めに当方が勉強をサポートした中学生たちも、今や社会の中核。大臣や知事、企業や自営業の人々、教員においても、50代が中心。

 映画を見て素朴に思った。今の日本の社会は、かつて偏差値やら順位やらに駆り立てられ、そうした理不尽に疑問を持った若者たちが思い描いた社会に近づいているのだろうかと。彼らの先輩たる我々の世代は、あるべき社会を築いてきたのであろうか、責任を果たしたのであろうかと。

 森田監督は制作時、30代前半。監督は、学園紛争が終わりにさしかかる時期に大学に入学されたはず。本作には、80年頃の受験世代へのメッセージ性も感じられる。そして受験競争に対する批判も込められている。

 劇中、家庭教師・松田優作は、無駄な抵抗を試みる受験生・宮川一朗太に執拗に「諦め」を迫る。

 残念ながら、昨今においても受験競争や学歴社会の構造は、エスタブリッシュメントの入れ替えは見られるものの、演者が入れ替わっただけで、本質的に変わりはない。それどころか、「学校化」はますます社会全体に浸透し、格差を助長しているのではないか。教育におけるヒエラルキー、社会における生存競争は依然として厳しい。

 しかしながら、本来の人の生活のあり方は、ギスギスした競争でもなければ、ましてや血生臭い闘争ではないはずである。

 今回、『家族ゲーム』を見返して、家庭という小空間に繰り広げられる物語に「ある種の平穏」を感じた。これは、森田監督が意図したものかどうかはわからない。しかし、映画も原作もタイトルには「ゲーム」という言葉が使われている。

 そうだ。これは「ゲーム」なのだ。受験も家族も。映像にも、ボードゲームやテレビゲームが顔を出す。愉しめばよいのだ。「ゲーム」は刹那的な高揚であり、「負け」に終わったとしても、決して取り返しのつかない悲劇をもたらすものではない。殺伐とした居住地域、温かみのないコンクリート建造物内にあっても、それでも小宇宙の安全は担保されているのである。だから、母親・由紀さおりが激高するような場面はなく、振る舞いに安定感がある。

 ゲームに興じていれば、少なくとも家庭においては、大過なく過ごすことができる。決して諦念ということではなく、また見せかけということではなく、映画はそういう「平穏」のありがたさを感じさせてくれる。『家族ゲーム』は、コロナ禍という先行きが見えない情勢の中、幸福や平和の意味を見直すヒントを与えてくれる。果たして、戦うことが唯一の道なのだろうか。

 余談になるが、80年代に湯布院映画祭に出席された伊丹十三監督とは、イベント終了後の飲み会の席でご一緒したことがある。高名な文化人でもある氏に接して、20代の私は終始緊張していた。なので、何をお話させていただいたのか、ほとんど記憶がないが、監督が美しいお顔の温和な紳士であったことだけは覚えている。また、『家族ゲーム』のプロデューサーである岡田裕氏に、別年に開催された上記映画祭でお話をさせていただいたことも楽しい思い出となっている。




 

 

 


 

 

 

 

 

 

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