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『夢十夜を十夜で』 – 日めくり文庫本【7月】

【7月25日】

 男が一人、女が一人いて、女の死後、女との再会の約束を守って百年待った男の、女に対する純愛の物語という一点で全部の学生の意見は一致した。寿命の尽きることを考えると百年待つなんて不可能でないかというまっとうな質問がひとつあったけれど、いきなりこれは夢なのだと断り書きある文章である以上、それもオーケーなのだ。というより、そうやって不可能、不可能と言って諸事切ってすてるあさましい世界を糺(ただ)し、癒すために「夢」が発明されたのだと言うべきではないか。そも夢とは何か、夢をささやかにも紙上に可視化する物語とは何か。それもかつてはバロックと呼ばれ、この頃ではマニエリスムとも称される人々の生き方と芸術表現の一様態が自からの必然とした大テーマなので、ここ当分、そもそも夢とは何で、何故人々はある条件である夢を見るのか、「夢を見る」と言うが、そもそも「見る」ことと「夢」との関係やいかにと、すべて何となく当然のことのように思わず夢中で[#「夢中で」に傍点]考え詰めてくれると有難い。
 たったひとつ示された材料では何を話そうと話は茫々(ぼうぼう)と取り止めもなく広がって、大風呂敷な前ふりばかりになる。参加したG嬢の「百年待つというのもこの場合にはほどよい気がする。十年では現実味があって夢に合わないし、千年では百合と相性が悪い」とか、K嬢の「百合の〈百〉と『百年待っていて下さい』がかけられていて、実際には百年も待っていなかったのではないかとも思いました」という答を紹介して、百年というのは現実には無理とする他の何人かの懐疑派の疑問に答えることをもって九十分の白熱授業は始まった。「百」年待って「合」から「百合」なんだね、と。なんだ言葉の遊びじゃないか、それってという感じが何人かの頭にありありだったが、実はそれこそがかの神経医学のパイオニア、ジークムント・フロイトのいわゆる「機知語(ヴィッテ)(Witte 英語ならwit(ウィット))」であり、二十世紀初頭のそのフロイトの「機知語」「始原語」「言い間違い」の論に微妙に蘇った十六世紀マニエリスム(と、十八世紀末の「蘇るマニエリスム[Mannerism rdivivus])たるロマン主義が得意(えて)とした、見掛け上限りなく遊戯的な「文学」という表現営為の正体なのだ。この十コマ授業が終了する時、何人の学生がそこまで了解してくれているものやら、だ。しかも、これ以上こみ入った授業で留学生がいなくなってしまうのも「国際系」学部の禄(ろく)を食(は)む立場としては申し訳ないし。ま、やるだけやってみるさ。

「1」より

——高山宏『夢十夜を十夜で』(はとり文庫,2011年)22 – 24ページ


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