掌編小説●【満月とパラドックス】



 暖かないまごろの季節はトカゲでいるのがいちばんよい。身体中が毛や羽根で覆われていると暑苦しいし、かといって空や水の中はなにかとせわしない。イザナミは生い茂るアダンの葉陰から銀色の満月を見上げて湿ったここちよい空気で胸をいっぱいにし、それからゆっくりと吐き出した。


 この華やいでいるようで、しかしもの憂い、落ち着かない気分はどうしたのだろう。満月の光を宿したイザナミの瞳が鱗を纏った下瞼の奥で、星々のあいだ、濃紺の闇を彷徨う。


 わかっている。これは、この胸のざわめきは、あの野生の眼をした逞しい青年のせいだ。夫のいる身分だけれど、だからといってそれでときめく気持ちまで抑えられるものではない。その気持ちを認めれば理性は揺るがず過ちを犯さずにすむ。


 あの青年は、いやあの青年こそ、人類の未来への、——もしまだその可能性が残されているとしたらだけれども——、指導者たりうる、稀有な資質の持ち主だ。どんな状況ででも人を惹きつけ、魅了し、考えさせる言葉を残していく。


 イザナミはうっとりと下瞼を閉じ、今日の昼間、ヨミ山の麓で目にした光景を思い出す。青年は数十人の仲間とともに川床の石を拾い上げては小さな塔をつくっていた。ただ石を積み重ねただけの塔はときおり強い風が吹けば崩れてしまうのだけれども、若者たちは倦まずに何度も積み直す。


 イザナミお気に入りの青年もズボンの裾を濡らして作業に参加している。そしてずっとなにごとかを話している。その誰にともなく語る話を聞きに若者が集まる。


「こうして石を積んでいると、だんだん言葉の頼りなさがわかってくる。この手応えや荒くなる息や汗を表現する言葉を探すたいへんさ。……、そんなことは考えずにただ言葉を垂れ流している者たちがいる、しかも真実ではなく金のためだけに。そういう連中はトーキングデッドという」


 ゾンビを表すウォーキングデッドやリビングデッドに掛けて皮肉っているのだ。


「トーキングデッド。意味のない言葉を吐き続ける死者。人々のための踏み石になる覚悟のない者が吐き出す虚ろな言葉、ただ金のために吐き出される汚れた言葉に真実はなく、嘘とまやかしが世に満ちている。

 イザナミは大きな岩の陰で耳を澄ます。


「しかし、それならばまだしも、という者たちすらもいる。そもそも言葉をもたない者たちだ。自分の気持ちさえ言葉で表せないので、すぐに暴れたりする。てめえ、この拳にモノをいわせてやるぞ、とかなんとかいって。けれども拳が〈おはようございます〉と挨拶をするだろうか。〈いちいち癪に触ることをいうのはやめろ〉と諌めるだろうか。〈はい。ごめんなさい〉と素直に謝るだろうか」


 周りの若者たちはクスクス笑い、青年は長い髪の毛をかき上げてちょっと得意そうに顔を上げた。


「ヘルジャパン。戦争が終わったとき、人々は生き延びること、食べることに精いっぱいで、それだけを考えて生きていた。彼らを見て育った子どもたちには理想がなく、そのまた子供たちは金の亡者となり、命の大切さなど考えもしない。次にきたるべき名誉と誇りの時代はいつまでたってもその片鱗すら窺えない。そしてまた罪を背負った子どもたちはついに恐れ慄き、自分たちの子どもを産むことをやめてしまった。ヘルジャパン。父さん母さん、地獄なんだよ。ここは地獄なんだ」


 人類の愚かさに飽き飽きしていたイザナミは、このときこの青年に人類の未来を託すことを決めた。愚かな者たちに諍いを起こさせないための抑止力、最終兵器。ほんとうの究極の最終兵器を彼の手に委ねて自分は真の闇に帰ろう。


 次の日の夜、イザナミはベッドに横たわった青年の枕元に現れた。気配に眼を覚ました青年にイザナミはいった。


「私、いちおう神です。でも私の姿を見るとあなたはきっと恐れ慄くでしょうから、明るく照らすお月さまは隠しておきました。ほんとうは今夜はロマンチックな満月の夜なのですけれど」


 青年が小屋の窓から外を見ると、確かに満天の星が瞬いているものの、眠る前にはかかっていた銀色の大きな満月はどこにもなかった。青年はイザナミの言葉を信じた。


「あなたは人類を正しく導く神の使徒です。それは天からの使命です。どんなに苦しくとも、あなたはその役割を果たさなければなりません。あなたが全世界の人々を幸福な未来へ連れていくのです」


 青年はベッドの上に座り直して姿の見えないイザナミの言葉に耳を傾けた。


「これはこの世界に終わりを告げる爆弾です」


 イザナミは青年の膝の前に重く、赤ん坊の頭くらいの大きさの球を置いた。


「これを割るとすべて、宇宙のすべてが一瞬で消えます。なにもない、ほんとうの終わりです。最後の最後、もう力尽きてどうにもならないと思ったときにお使いなさい」


 朝になってイザナミの置いていった球を見ると、それは瑪瑙のように鮮やかな色が複雑に入り組んで、たいへん美しく輝いていた。


 数日の後、イザナミが日向の樹の枝の上でウトウトと午睡をしていると、突然、大きな爆発音が響き渡った。それはヨミ山の麓、青年の住む小屋の方向からだ。


 眠い眼をうっすらと開けると、紫色の煙が立ち上っているのが見える。


 あ、間違えてしまった。


 イザナミは慌てて飛び起きた。全宇宙を消す爆弾ではなく、ただ自分だけの、自爆用の爆弾を渡してしまったらしい。


 しばらくして、イザナミはこう考えた。青年にとっては宇宙と自分が一緒に消えたのも、自分だけが消えたのも同じことだ。残念なことをしたけれども仕方がない。また誰かを探そう。


 それにしても、彼はああ見えて世界を憎むほど深く絶望していたのね。意外ね。

                             (了)


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