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1980年の大阪と東京〜“おでん“と“うどん“、食文化には垣根があった

9月24日放送の「村上RADIO」、今回は“村上の世間話3“とタイトルされました。その中で、関西育ちの村上春樹さんは、<18歳のとき初めて東京に出てきたんですけど、食べ物に関する驚きというのは、それはもう大きかったですね(番組HPより、以下同)>と話していました。

<中でもいちばん強烈だったのは「ちくわぶ」でした>、<見かけも不気味だし、味もおなじくらい不気味でした>とし、今でも“ちくわぶ“は駄目だそうです。

私は、村上さんとは一回り違いなので、その12年後、1980年に初めて大阪を離れ東京に出てきました。東京で付き合った彼女(今の妻ですが)が、「おでんは“ちくわぶ“が美味しい」と言ってた記憶があります。 でも、私もあまり好みませんでした、“ちくわぶ“。

おでんと言えば、関西では“関東煮“とも言います。読みは、“カントダキ“です。桂米朝さんが、「哲学的な食べ物」と言ってました。小学校の給食の献立表にも「関東煮」と表記されていました。“がんもどき“も、我が家では“ひろうす“と呼んでいました。

1980年においても、東京と大阪では食文化にまだ垣根があったと思います。上京前、東京に住んでいたことがある叔父が、「東京の立ち食いそば屋には“コロッケそば“ちゅうもんがあるで」と教えてくれました。高校生でも、関西の立ち食いそば屋は行っていましたが、多分“コロッケそば“なんてなかったと思います。

上京後、新宿駅構内の立ち食いそば屋に入ると、確かに“コロッケそば“なるものがあり、早速注文しました。揚げて放置されていた冷たいコロッケがかけ蕎麦に乗っていて、食べてみると結構もそもそした食感、「小学校の給食に出たコロッケみたい」と感じたことを記憶します。さらに、つゆが真っ黒で、醤油の味が強かった。さらに衝撃は、そのつゆをうどんにもかけていたことでした。

その時、「東京でうどんは食べられへん」と強く心に決めたのでした。今は、いたる所に、讃岐うどんの店がありますし、「丸亀製麺」のような気軽に入れるチェーン店もあり、まっとうなうどんつゆを出しますが、1980年はそんな時代ではなかったのです。

私は吉祥寺に住んでいたのですが、当時は近鉄百貨店があり、そのレストラン街に「四国」といううどん屋がありました。その名の通り、讃岐うどん、澄んだつゆのうどんが食べられましたが、当時の私が知る限りはその店くらいでした。大学生がしょっちゅう行くような店ではないので、大阪に帰省した時は、到着するとまず新大阪駅構内の立ち食い店「浪花そば」(今もあります)に寄り、大好きな“きざみきつねうどん“を食べていました。

ちなみに、“きざみ“というのは、油揚げを短冊状にきざんだもので、揚げに甘い味はついていません。これをかけうどんにトッピングする、シンプルだけれど美味しいうどんです。(写真は名店・道頓堀「今井」のもの)

吉祥寺で思い出しましたが、駅の北口を出たところに「松屋」がありました。「吉野家」は大阪にも出店していましたが、「松屋」というのは見たことがなく、“牛丼“ではなく“牛めし“、「吉野家」では別売りの味噌汁がデフォルトでついてきたのが新鮮でした。その味噌汁の薄さと“牛めし“という響きが、“東京“なのだけれど、なんとなくうら寂しく、異文化の世界に来たと感じていたのでした。

初めての一人暮らしを始めた私の心情を反映していたのかもしれません


*大学卒業後、妻が発見した「やしま」という讃岐うどん屋が渋谷センター街近くのビル地下にありました。二人で行った時、伊藤麻衣子がいたのを覚えています。その後、店は代替わりし、場所も渋谷円山町に移り、“食べログ“の口コミによると、かつての店主のお孫さんがやっているようです。2年前に訪れた際の写真です

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