夏目漱石「私の個人主義」(その2)〜全ての政治家はこれを読め!

(承前)

夏目漱石の学習院大学における講演、「私の個人主義」。前段で、夏目漱石は、悩める若者に対し、自分自身の幸福の為に、進めるところまで進めと説く。第二篇と称する後段では、こうして個性を確立し<一本立になって世間へ出た時>に、頭に置くべきことを話す。

漱石はこうまとめる;

第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない
第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならない
第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならない

世の中の政治家の皆さん、財を成した皆さん、聞いてますかぁー

漱石はさらに、自由の裏側には義務があると話す。<義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます>、そして<こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです>。

ただし、この“個人主義”というのは、他の”主義”と排他的なものではなく、<私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあります>。ただ、その重みは、時々の状況によって変化する。

確かに、我々はウィルスが蔓延すると、“国家”を重視しマスクをする。それが変化すると、“個人”が重要となりマスクを外し、自由な行動を取る。こうした使い分けが、自然とできるようなようでありたいと、私は思う。

ここで、漱石が放つ一言が印象的である。<国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です>。

国というのは、徳義心はあまりなく、詐欺をやる、ごまかしをやる。したがって、国家が平穏な時は、個人主義に重きを置くのが当然だと言うのである。

大正時代の政府のモラルと、今のそれが同一だとは思わない。しかし、国=政治、さらに政治が政治家の集合体とするならば、個々の政治家レベルでは、漱石が指摘するようなことが、連日メディアをにぎわせている。ならば、彼らが構成する政治というものが、 我々個人の道徳感からすると、とんでもないことをやらかすリスクをはらんでいる。いきおい、国民は“個人主義”のもと、徳義心を持って監視・関与しなければならない。

自由には義務が伴う。政治を監視し、参加するというのは、その義務の一つである。それを忘れると、自由を謳歌する日々は長くは続かない。先日のアメリカの中間選挙では、自由を守るために、若者を中心とした動きがあった。

油断すると、国家は“国家主義”の名の下、さまざまな辛苦を強いてくる。私たちは、そのことを歴史からも学んでいる。また、夏目漱石らの、偉大な先人たちは、そのことを想起させてくれるのである


明日は、本当は一番触れたかった、本講演のマクラについて



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