見出し画像

夏目漱石「私の個人主義」(その1)〜若者は是非読むべし!

私が聴いているAudibleの「夏目漱石名作集」に、「私の個人主義」というものが収録されている。大正3年(1914年)の11月学習院大学で、学生に向けて行った講演の記録で、テキストは青空文庫Kindleで無料で読める。この年、漱石は「こころ」を発表。翌年「道草」、そして1916年の「明暗」で漱石の作家活動は終了する。漱石晩年の講演である。

これが素晴らしい。短いものなので、是非一読されることをお勧めする。これまで一度も漱石を読んだことのない方にとっても、歴史上の文豪が身近な存在として感じられる内容である。

まず冒頭、落語に例えるとマクラの部分が良い。まさしく落語の演目「目黒のさんま」を引用している。このことについては、後ほど記すことにして、本日は講演の本題の前半を紹介する。

漱石は話の前段、これを漱石は<講演の第一篇に相当する>と話しているが、自分がどのように今の立ち位置に至ったかをコンパクトに話す。抜き書きでご紹介しよう。

漱石は何の飾り気もなく、隠すこともなく話す。まさしく、素の漱石が感じられる。就職活動の結果、嘉納治五郎に説得され高等師範の教員となるのだが、<私には不向きな所で>、<まあ肴屋が菓子屋へ手伝いに行ったようなもの>で、<一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました>。「坊ちゃん」の舞台、松山へである。

その後、漱石は熊本に転任するのだが、文部省から英国留学の話がくる。彼は、<断ろうかと思いました>が、<絶対に反抗する理由もないから、命令通り英国へ行きました>。ところが、<果たせるかな何もする事がないのです>。

漱石は大学で英文学を専攻するが、文学というものが何かわからずじまいだった。<私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない>。こうした不安を抱えながら、大学卒業、教職をこなし、ついには<同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります>と話す。

漱石のこの言葉に、共感を覚える人、特に若者は多いのではないだろうか。彼は、<嚢(ふくろ)の中に詰められて出ることのできないような人>であり、それを突き破るための<一本の錐(きり)>を求めていました。

野坂昭如に“ソ・ソ・ソクラテス”という曲がある。“ソクラテスもプラトンも、ニーチェもみんな悩んで大きくなった”という内容である。漱石もその一人なのだ。

苦難の末、漱石は<文学はどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです>。<他人本位>では駄目だと気がつき、その例えとして<自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指す>、これではいけないと言うのだ。

こうして、<自己本位という言葉を自分の手に握って大変強く>なった漱石は、<著者その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業にしようと考えたのです>。

ただ、漱石は自分の取った<径路があなたがたの模範になる>とは決して思ってはおらず、<自分本位>で自らの道を切り開く以外になく、<こだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ>、<もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです>と、若者たちに話す。

こうして、漱石は<自分本位>、個人主義へのススメを説くのだが、後段ではそのために必要なことを語る


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?