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副汐健宇の戯曲易珍道中⑫寺山修司~『さらば、映画よ』~

筆不精極まりなき、曲がりなりにも東洋占術家の、副汐 健宇です。
こちらでのnote、大分怠け倒しているにも関わらず、こちらにお越し頂き、深く感謝申し上げます。

”戯曲易珍道中”

途切れながらも、道は続いています。何としても、続けます!!

・・・と、熱を無理くり宿らせたところで💦

今回、ご紹介する戯曲は、

寺山修司:著
『毛皮のマリー/血は立ったまま眠っている』(角川文庫)

・・・に、収録されている、

『さらば、映画よ』

です。

寺山修司の戯曲は、以前も、『地球空洞説』を取り上げさせて頂いた次第ですが、

今年2023年は、寺山修司没後40年の年なのです。

今回、命日の5月4日には間に合うように私なりに模索していましたが、見事に、大幅な遅れという体たらくです・・・。

■334ページより引用

(寺山修司による解題)

 もともと、この作品は、「ファン」と「スタア」の二部構成になっており、ここに収載したのはその中の「ファン」の部分である。当時、私は代理人Stand inということついて考えていた。私たちは、自分の着る服は服屋という代理人に作らせ、誰もが、他の誰かの代理人を演じることによって社会<参加>を果しているのである。


・・・私が普段、曲がりなりにも嗜んでいる東洋占術、否、あらゆる東洋哲学の礎となっている概念、陰陽五行・・・・・・開く陽、閉じる陰、ポジティブフィードバッグとネガティブフィードバッグ、ファンとスタア・・・・・・
結局はこの陰と陽、二つの要素が微細に絡み合って世界が縁取られている、という前提を、乱暴に解体し、暴力的に、それでいて知性的に、新たな視座を打ち立てる寺山修司の戯曲に、鑑定や占術研究の際、陰と陽の狭間で迷い
、揺れ動いている自身には、どうしても、氏の戯曲には否応無く魅かれてしまうものがあるのです。

そして、”代理人”という概念にも否応無く唸らされるものがあり・・・・・・占術家として、クライアントの未来や心理の動きを汲み取っている”代理人に私はなり得ているか”、そんなテーマをくっきりと提示して下さる本作を今回は取り上げる事に致しました。


中年の男1、中年の男の科白の交換が延々と繰り返され、それはやがて「映画」の解体に辿り着けるのか、それとも・・・・・・


■14ページより引用

中年の男2 そうね、俳優がほんとに死んじゃっちゃいけないよなあ。
      俳優は映画の中で死ぬべきですよ。
      ストーリーの中で死ねばいいんだ。
      そしてまたべつの映画の中で生きかえる。歴史の反復性・・
      ・・・・輪廻。
      それなのにハンフリー・ボガードは映画の外で死んでしまっ
      た。
      何てわがままな人だろう。

・・・私は、曲がりなりにも市井の東洋占術家の一人として、周易の、八卦の、六十四卦の中で死ねるのでしょうか? 乾為天(☰☰)から火水未済(☲☵)の果てしない輪廻の中で・・・・・・。

■18~19ページより引用

   ―省略―

   夜のアパートに机を並べて母と私は
   終電車の音をききながら、母は自分あての葉書を書き、私は長い日記
   を書いていた。日記の白のスペースは、まるで荒野のように涯(は
   て)しなくなって
   私の字は書いても書いてもどこにも辿りつくことが出来なかった。
   私達は書きつづけてきた・・・・・・
   この二十年間、まるで同じことをくりかえしてきた・・・・・・
   今から思えば私たちの生活には他人がいなかった。
   そう。まるで、鬼のいないかくれんぼをしていたようなもんだったん
   だ。

・・・上記のセリフ、タイプしながら一種の興奮を覚えたものでした。
”鬼のいないかくれんぼ”、というのは、まさに、あらゆる”占い””占う行為”にも当てはまる情景なのではないでしょうか?
見えないものを扱う、見えないものを追いかける、
まさに鬼のいない”かもしれない”世界で鬼を探してある程度の答えを導き出す。
・・・しかし、ある種、そんな営みを”適当””インチキ”という言葉で断じてしまう方も存在する。
まさに、”鬼のいないかくれんぼ”の最右翼的行為である”占い”が完璧に認められるのは

「まーだだよ」

なのだ、と思い知らされ、自虐的な興奮を湿った自室(?)で覚えた次第です。

■22ページより引用

中年の男2 私は今、Stand inということを真面目に考えてるんで
      す。
      要するに「代理人」ってことですよ。
中年の男1 公証人のことですか?
中年の男2 それもあるかも知れません・・・・・・とにかく、これはとて
      も重大な問題だと思うんです。 

・・・そろそろ、毎度、お馴染みの、あらゆる場面を六十四卦に例える、という(かくれんぼの見えない鬼を無理やり引き出す)行為に入りたいと思います。

上記の会話を六十四卦的に解釈しますと、

        坤為地の初六
          (こんいち)

           ☷
           ☷ 

「初六は、霜を履(ふ)みて堅氷至る。」

坤(☷)は、全て陰爻で構成されています。陰は、柔らかい、細やか、と性質の極致であり、自身の柔らかさを主張する事さえせず、ただただその場で”待っている”・・・
なので、周囲の赴くままに、自身を作り変えていける・・・しかも、初爻も、何事も自身の中で受け身な解決を求め、外の世界への主張を控えるイメージがあります。

”初六は陰気の始めて生ずる時、その勢いはなお微弱であるが、放置すればやがて強盛になるから、早くこれを警戒せねばならぬ。たとえば始めて霜を履む季節ともなれば、やがて堅い氷の張る時のやって来ることを予想すべきである。”
⇧ 『易経(上)』高田真治・後藤基巳訳(岩波文庫) 101ページより引用

始めは、誰かの代理人を務める事に対し、快楽さえ覚えるかも知れない。しかし、やがて、それはやがて堅い氷になり、周囲の目を”冷ます”のか、それともその氷を手にして・・・・・・?


■25ページより引用

どこかの町の片隅に、私を「代理人」にえらんださみしい中年男がいて、私は、その男のさみしさを、代りに味わっているのじゃないだろうか?

⇧  ・・・またしても私事な内省にはなりますが、私は、市井の東洋占術家としてその場に立つ際、クライアントの方の今後の半生、そして、心理を、「代理して」読んでいるだろうか? その方のお悩みや切なさを、自分事に引き寄せて、その方の「代理人」の如く、未来に想いを馳せる事が、出来ているだろうか? ・・・またしても、微弱に戦慄した私であります。


■27ページより引用
 
私は映画の中のハンフリー・ボガードは映画の外のハンフリー・ボガードの代理人だと思いこんでいたが、実はあべこべだったんだ・・・・・・
いいですか? ハンフリー・ボガード殺人事件の犯人は、映画の中の本人だったんですよ。彼は彼自身の代理人として、実にうまく立振るまい、しかもちゃんと生きのびていた。
彼はどこにでもいながら「さわれない人間」なんだ。


⇧  上記のセリフは、六十四卦の当てはめがいが、比較的ある、セリフだと思われます。私は、否、多くの、周易を嗜む易者の方が、”あべこべ”というフレーズを目にするだけで、真っ直ぐに引用したくなる卦、があると断言出来ます。
その卦は、

           雷沢帰妹(らいたくきまい)

              ☳
              ☱

「帰妹は、往けば凶なり。利ろしきところなし。」
「象に曰く、帰妹は、天地の大義なり。天地交わらざれば万物興らず。」

帰妹とは、妹(年少の娘)を帰(とつ)がせるの意。
お若い娘様(☱)が年老いた男(☳)のお尻を追いかけている卦です。
多様性、Diversityが謳われる昨今では、炎上案件になりかねない見方ですが、周易が東洋に根付いた当時は、お若い娘様が、年老いた男を好きになり、自ら追いかけて行く事に対して、”違和感!”!あべこべ!”という評価が、下されていたのでした。
一方で、悦んで(☱)動く(☳)という意味合いもあります。
ハンフリー・ボガード氏は、あべこべを楽しみながら、生き延びていたに違いありません。「誰にもさわらせるものか!」と。
敢えてどの爻かを当てはめるとすれば、坎(☵)の主爻でもあり、震(☳)の主爻でもある、九四、が相応しいのではないでしょうか?
したたかに考えて(☵)、動く(☳)

”九四は、帰妹に期(とき)を愆(あやま)る。帰ぐを遅(ま)つこと時あり。”
・・・

■28ページより引用

   では、私の主人はどこにいるのか?
   幻影はどこにいて私を操っているのか?

■29ページより引用

(※中年の男2のセリフ)
   だが、私たちが見るのはいつも暗闇だ。魔の闇だ・・・・・・。
   映し出される物語もなければ、遠い故郷の町の、小便くさい映画館ま                  でかけめぐる、ほんものの私もいない・・・・・・そう、ナッシング。何も  ない。パア! だ。
そして私はまた、あなたの股の間に顔を埋めて「代理人」相応の、孤独な宝さがしにふけるって訳ですよ。(笑って)そう、映画の外でね。 


―省略―

中年の男2 そう。部屋の中にだって星はありますよ。
      ただ、見えないだけなんだ。
      (腰かける)
      私は、ニューヨークで突発した十二時間の停電について考えま
      したね。
      あの十二時間、ニューヨークの市民は何を待っただろうか、っ
      て。

⇧  上記の展開は、やはり、”暗闇””魔の闇”というのが大きなキーワードとして屹立しているように思います。
  やはり、太陽(☲)が大地(☷)の下に隠れている、という異常性を訴えた卦であります、

             地火明夷(ちかめいい)

が、妥当でしょう。
では、今度はそのどの爻が適しているか、という事ですが・・・・・・
単純に、外卦(☷)が外の世界、内卦(☲)が家の中、だとしますと、
まだまだ、”待つ”しかない、”及ばない”
・・・初九(初爻)が相応しいのではないでしょうか?

”初九は、明夷(やぶ)る、ゆき飛びて其の翼を垂る。君子ゆき行きて、三日食わず。往くところあれば、主人言(げん)あり。”

■30ページより引用

      アスファルトの舗道のスペースを見つめながら、みんなきっと
      「自分の時間」の始まりを待ってたのではないだろうか?
―省略―
     自分がしゃべる他人のことばの素晴らしさ! それはまさしく自
     分を数十年操りつづけてきたほんものの自分だ・・・・・・その
     言いようのないなつかしさは、私が誰なのか、どこから来たのか
     をきっと解きあかしてくれるだろう。  

     十二時間!
     それは数十年の休憩時間のあとにやってきた
     人生の始まりの時だ。
     (大きな溜息)

⇧   上記の展開、”アスファルト”というフレーズから、硬質な、陽爻が満載している卦をあてがいたくなる衝動に駆られますが・・・・・・
   「自分の時間」の始まりを、”待つ”という姿勢の方が、切実な心理が窺え、こちらの方に軸足を置いた卦を当てはめようとした次第です。
        
          水天需の六四
            (すいてんじゅ)

              ☵
              ☰

”需は、孚(まこと)ある。光(おお)いに亨る。貞なれば吉なり。大川を渉るに利ろし。”
     雲(☵)が天(☰)に上り、恵みの雨を待ち焦がれている様子を表した卦です。
     水天需の四爻(六四)は、

”六四は、血に需(ま)つ。穴より出づ”

何か、不穏な感を受ける爻辞ではありますが、四爻は、内卦と外卦をちょうど媒介する場所。水辺の険しい場所に近いが、辛抱強く待つ事で、穴から這い上がれるに違いない、という意味であります。
敢えて、そんな四爻を選んだ理由ですが、
    六四は、兌(☱)の主爻にもなり得ています。兌は、湖、止水という意味もありますが、おしゃべり、言葉、賑わう、という意味合いも含まれています。
   そして、離(☲)の主爻にもなり得ています。
   言いようのないなつかしさが、”私”が誰なのか、どこから来たのか、を解き明かし、明らか(☲)にしてくれる。という物語がこの卦、爻の中に存分に含まれているのです。
  そして、「アスファルトの舗道」を見つめている・・・・・・
  水天需の内卦は、乾(☰)。全て硬質な陽爻で彩られています。
  それを、見つめて(☲)、いる・・・・・・。 

  

■31ページより引用

中年の男1 (ふいに)見た、見た!
       見つけたぞ!
中年の男2 (ギョッとなる)
中年の男1  部屋の中の星さ。(ふざけて)すぐさま天文台へ電話しよ
       う。
       見えない星を見つけました。
       それはテーブルの壜の中に出ていました。
中年の男2  (不機嫌になる)
中年の男1  私は、壜の中の天文学者です。
       この星は、パラマウント映画のタイトルにちりばめられる純
       情の星、あこがれの星(スター)です。

⇧   上記の、ふいに沸き起こった明るい兆しを言い当てる卦ですが、
   地上(☷)から太陽(☲)が上昇して行く、火地晋(かちしん)が妥当、と脊髄反射的に断じてしまいたくなりますが、上記の展開の軸となっているのは、太陽では無く、夜の星、です。それを踏まえますと
   
            雷地豫の初六
              (らいちよ)
 
               ☳
               ☷

”象に曰く、豫は剛応ぜられて志行なわる。順以て動くは豫なり。”

星は、離(☲)の錯卦であります、坎(☵)の方が相応しいでしょう。

豫は、豫楽、歓び楽しむ、の意味合いがあります。
中年の男1は、部屋に籠りながらも(初爻に甘んじながらも)
突然見上げれば、部屋の中の星を見つけた。
初爻(初六)は、坎(☵)の主爻であります、四爻(九四)に応じています。しかも、四爻は、”歓び楽しむ卦”雷地豫の主爻でもあります。
九四の一つだけの陽爻に、衆陰(幾多の陰爻)が集まり享楽する・・・・・・。

ただし、雷地豫の初六の爻辞は

”初六は、鳴豫(めいよ)す。凶なり。”

・・・初六は、九四の応爻の助けを受け、気が驕ってしまい、怠慢に埋もれてしまう・・・・・・。部屋の中の壜、それは、怠惰に通じるパンドラの箱に過ぎなかったのでしょうか? それとも・・・・・・。

■32ページより引用  

中年の男1  そう。
       停電中は、お月さまがニューヨークを支配したでしょうから
       ね。
中年の男2  (腹立たしく)何てことを言うんだろう!
       停電中は、暗黒が・・・・・・その暗黒の中の光が・・・
       ・・・つまり存在しない映画がニューヨーク中の壁という壁
       にうつり、きこえないテーマ音楽がビルというビルの窓から
       、まるで悲鳴のような交響楽になって、鳴りわたったんじゃ   
       ありませんか。

■34ページより引用

中年の男1、それでも笑っている。

―省略―

中年の男2  たまには怒ったら、どうですか?
中年の男1  ・・・・・・
中年の男2  怒ると、人間らしくなる。
       少なくとも怒れるってことは植物じゃできないことだからね
       。
       (と、中年の男1のごまかし笑いをしている顔に顔をおしつ
       け)
       さあ、怒ったらどうです。
       怒るには才能も資本も要りませんよ。 

全然怒らない中年の男1

⇧  上記の展開を、無理やりに卦を当てはめますと、

          雷山小過
            (らいざんしょうか)

            ☳
            ☶

が相応しいのでは無いか、と私は思いました。

「小過は、亨る。貞しきに利ろし。小事には可なり、大事には可ならず。飛鳥これが音を遺す。上るに宜しからず。下るに宜し。」

小過とは、小なる者(陰)が、大なる者(陽)に過ぎる、の卦。
”小”が”過ぎて”、物事を決断する力が弱まっている卦。
そして、内卦(☶)と外卦(☳)が違う方向を向いている。背き合っている・・・・・・
どの爻を当てるか、という問題ですが、
中年の男2の視点から、としますと、
三爻が相応しいのではないか、と思います。

”九三は、過ぎてこれを防がざれば、従いてあるいはこれをそこなう。凶なり。”

中年の男2は、自身の”怒って下さい”という願望に頑固に固執し(☶)、一方の中年の男1は、そんな頑なさはどこ吹く風で、明後日の方向を向いている(☳)ような・・・・・・。

それにしましても、超絶な私事ではありますが、こちらの展開に触れ、やはり私は”草食”、植物なのか? と、先日に新宿区歌舞伎町の某レストランで美味い美味いと食した牛ホルモンの味を脳内で無理やりに反芻しながら、苦笑いして思うのでした💦



■36ページより引用

中年の男1  目から星が出た。(とフーッと息をして)目から出た新星!
       早速天文台に!・・・・・・連絡しなくちゃ。
       (と、ふざけて)南西の地平線から仰角十度のクジラ座の真
       ん中。星のあかるさは三年星で尾は五度の長さにのびている
       すい星・・・・・・この目から出た星は、
       だんだん地球から遠ざかりかけている。
中年の男2  (ふいに真顔で)
       どうして怒らないのです?
中年の男1  ・・・・・・

⇧  上記の展開も、中年の男1と2の噛み合わない切なさを思いますと、雷山小過しか無いのでは、と断じたくなりますが、今一歩、踏み出して中に分け入って行きますと、今度は、中年の男1からの視点で踏まえますと、

             山火賁の九三
              (さんかひ)

                ☶
                ☲

”賁は、亨る。小(すこ)しく往くところあるに利ろし。”

賁とは、文飾、飾る、の意。火(☲)が山の下(☶)にあり、草木を明るく優雅に照射して行く・・・・・・。
星は、離(☲)よりも、坎(☵)の方が相応しいと先述しましたが、上記の中年の男1のセリフは、
「どこまでも伸びる明るさ」の方に意識が存分に傾いている、という観点から。その”明るさ”に一番適した☲を、内卦に当てはめました。
しかし、相手(外卦)の中年の男2は、頑固に中年の男1に、明るい星など構わず、”怒ること”を頑なに要求している。
何故に九三(三爻)かといいますと、単純に、中庸を飛び越えて、中年の男1のテンションが振り切っている(中を過ぎている)ので、九三としました。振り切る震(☳)と、思わぬ落とし穴に入る坎(☵)の、どちらの主爻にもなり得ている。上昇と陥没を瞬時に同時に言い当てる、これ程の爻は無いでしょう。

”九三は、賁如(ひじょ)たり、濡如(じゅじょ)たり。永貞なれば吉なり。”

■37ページより引用

中年の男2  (懇願するように)怒って下さい。
中年の男1  (笑う)怒ってる怒ってる。
        私は怒っている・・・・・・私は怒るとしだいに稀薄にな
        る・・・・・・そしてだんだん他人の目にとまらなくなっ
        てゆく。
        そして消えゆく人間なんです。

⇧ 上記の展開、中年の男1の心理を憶測すると、仄かに背筋が凍るのは私だけでしょうか? 自身の見えない死(”消えゆく”)を俯瞰して冷静に眺め、分析している男。その心理の奥に、細やかな、実に細やかな冷徹を感じます。こちらの”魂の交歓”を、六十四卦に無理に当てはめますと、

          坤為地(こんいち)

             ☷
             ☷

が、結局は相応しいのでは無いか? という結論に至ります。
通常、自身(内卦)と相手(外卦)がいて始めて成立するのが六十四の大成卦ではありますが、上記の展開は、中年の男2の”怒って下さい”という頑なな願望でさえ、中年の男1の冷徹な達観によって見事に無化されている。中年の男1の視点が、中年の男2さえも浸食している、ような、静かな強さに溢れているように思います。二人の男の力学が存分に崩れているのです。

”消えゆく”・・・全て、陰で構成されている坤(☷)以外にはないでしょう。
ただし、坤は、陰は陰でも”老陰”・・・・・・
”陰極まって陽になる”のトリガーにもなり得るのですが・・・・・・。


 

■38ページより引用
(※中年の男2のセリフ)
   おっ立てろ。
   そして、「代理人」を放棄して、ただひたすらに動物的に、動物的に
   、動物的に。
   (ベッドの下から、しなびたラグビーの楕円形のボールをひきずり出
    して、舞台中央に据える)
    さ、どうです?
    怒るってことは、素晴らしいとは思いませんか?

⇧   中年の男1の静かな冷徹さに取り込まれる事無く、中年の男2は、毅然と球を返します。上記の扇動にも似たセリフを無理やりに六十四卦を宛がいますと・・・・・・

              雷風恒の六五
                (らいふうこう)

                 ☳
                 ☴

”恒は、亨る。咎なし。貞しきに利ろし。往くところあるに利ろし。”

恒とは、永久不変。長男(☳)が社会(外卦)で労働し、長女(☴)が家(内卦)を治めて平穏安泰・・・・・・
と、フェミニズムの観点からは炎上を受ける価値観ではありますが、あくまでも、周易が完成した当時の価値観なので、寛大に受け止めて頂ければと思います。

何故、雷風恒が相応しいか、という事ですが、
”おっ立てろ”という扇動に扇動を重ねるようなセリフについ目が行ってしまいますが、冷徹に分析しますと、まずは、ベッドの下から引きずり出された楕円形のラグビーボールに着目したいと思います。円、丸○は、金行を表します。
そして、それを”舞台中央”に据える・・・・・・。
”中央”は、五行に例えますと、土行、です。
雷風恒は、坤中包乾卦。
坤(☷)の中に乾(☰)が包まれた卦です。
土行の中に包まれた金行。それが中央に屹立している。

六五(五爻)は、中庸を含んだバランスの取れた位置、という側面もありますが、乾(☰)を包んでいる土行、坤(☷)の主爻にもなり得ています。

ちなみに、雷風恒の六五の爻辞は・・・・・・

”六五は、其の徳を恒にして貞し。婦人は吉なれど、夫子は凶なり。”

■39ページより引用

中年の男2  シュートに自信はありますね?
中年の男1  (うなずく)
中年の男2  それじゃ、やりましょう。
       ボールは地球だ。
       そして(客席を指し)向うは映写機(スクリーン)のかなた
       。あの、どまん中にボールを叩きこむと、連中もきっと怒り
       出すに違いありませんからね。
       (と、ボールの位置をさだめる)
       さあ、力一杯たのみますよ。
       皆を怒らせろ! みんなを怒らせるんだ!
中年の男1ややためらってから、思いきったようにそのボールを客席に向って力一杯に蹴る!

⇧ ようやく、本作のラストシーンに到達しました。
  ジッと座って傍観者を気取っている客席に、ボールを蹴り込む。
  客席側が、大まかに坤(☷)である事には間違い無いとは思うのですが、こちらの中年の男サイドにどういった八卦を当てはめれば良いか・・・・・・
”蹴り込む”の意から、足元の初爻、そして、躍動感溢れる陽爻、つまり、適した爻が初爻、である事は間違い無いように思えます。
ボール(金行)を坤(☷)に打ち付ける、という意味で、
金行の卦であります、乾(☰)か兌(☱)のどちらか、という事ですが、
兌を内卦にしますと、
地沢臨(ちたくりん=☷☱)
湖(☱)を地上(☷)から傍観する、俯瞰する、というキーワードが色濃いので、力強く前に向かって蹴り込んで行くようなイメージはやや弱いです。
なので、

           地天泰の初九
            (ちてんたい)

             ☷
             ☰

 ”泰は、小往き大来(きた)る。吉にして亨る。”
上昇する老陽(☰)と下降する老陰(☷)が向き合える。天地の交わりがある。 
安泰、平穏の意味合いが備わっていますので、一見、こちらの今後も躍動的に混沌とすると思われるラストシーンには相応しくないのでは?と思われるかもしれませんが・・・・・・

地天泰の初九は、

”象に曰く、茅(ちがや)を抜く、征くも吉なりとは、志外に在ればなり。”

根の相連なる茅を引き抜けば、他の茅もごっそり連なって抜ける。志を同じくする仲間とともに行動すべきだ!という、まさに”扇動する”爻辞なのであります。

最後の最後に当てはまった卦が、扇動を含むとはいえ、地天泰だった。
という事は、本作はハッピーエンドと断じても可能なのでしょうか?
その答えは、本作に触れた方々一人一人に委ねられているでしょう。
周易、もしくは、断易における立卦の解釈に明快な答えが無く、
一人一人に委ねられている、ように・・・・・・。

蹴りこまれたボール(☰)は、見事に優しいブラックホール(☷)に見事に吸い込まれて、見事に”鬼”を見つける事が出来るのでしょうか?

それとも・・・・・・。

最後まで、身勝手でぶっ飛んだ解釈にお付き合い頂き、誠にありがとうございました! 深く感謝申し上げます。
今後も、出来ればこの身勝手さだけは続けて行きたいのです。
六十四卦が、そこに根付いている限り。
”鬼のいないかくれんぼ”を、「もういーかい?」と胸を張って呟けるまで。

今後も、時には怠けてしまっても、途切れそうになりながらも続けて行きたく思います。次回は、もっとクラシック?な戯曲に挑めればと思います。
何卒宜しくお願い申し上げます。

                 令和五年 六月十八日
        曲がりなりにも東洋占術家   副汐健宇                   
   
    


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