副汐健宇の戯曲易珍道中⑤〜寺山修司『地球空洞説』〜
大変大変ご無沙汰しております。副汐健宇です。
本当に遅筆な自分が恥ずかしくなります。
その中でも、こうして指を運んで頂き、誠にありがとうございます!
今回取り上げさせて頂いた戯曲の手強さにまさに、周易、ならぬ、辟易、していました。
その戯曲とは・・・
寺山修司 『地球空洞説』
(『寺山修司幻想劇集』(平凡社ライブラリー)より)
劇作家、演出家、詩人、映画作家、競馬評論家、と様々な顔を持った寺山氏の戯曲です。
当初はこちらでは無く『毛皮のマリー』を取り上げる予定でしたが、敢えて余り知名度の無いこちらを取り上げました。挑む、という姿勢を少しでも持ちたかったのと、”空洞”というワードに過度に反応したからかも知れません。私自身の中の空っぽを、この戯曲に挑む事で、埋まる・・・なんて単純な甘えは持ちませんが、空っぽの中の破れのようなものは補修出来そうな・・・それも甘えですね💦。しかし、この”空洞”の中身とは向き合ってみたかったのです。
■133ページより引用
「地球というものは一般に考えられているように中味のつまった球体ではなく、その中心には灼熱した溶解金属からなる火が燃えている状態ではない。実際には中空、すなわちガランドウであって、その両極には無にいたる入口が存在している。『地球空洞説』は、一九〇六年アメリカのウイリアム・リードによって初出され、一九二〇年には研究者マーシャル・B・ガードナーによって発展させられた。一九四七年、一九五六年には探検家リチャード・E・バード少将が北極及び南極の体験によってこの事実を立証した。
わたしは、地球の内部空洞内には「新世界」が存在しており、そこは地球の表面の陸地面積よりも広い陸地面積を有していると、信じている。
レイモンド・バーナード 」
極地探検で有名なバーナードが提唱したこの地球空洞説から着想を得たこの戯曲は、まるで、『周易』における、初爻と上爻だけ陽に縁取られ、中身が空虚の陰に彩られている
山雷頤(さんらいい)
☶
☳
”頤は貞(ただ)しければ吉なり。頤を観て自ら口実を求む。”
”象に曰く、頤は貞しければ吉なりとは、正を養へば則ち吉なるなり。頤を観るとは、其の養ふ所を観るなり。”
を巡る冒険演劇、と断じたい衝動に駆られてしまう・・・否、それは雷火豊的な大袈裟だったとしても、「空洞」という言葉から発作的に山雷頤を連想してしまう東洋占術家は、果たして、私だけでしょうか?
■414ページより引用
※寺山修司による解題
「この劇もまた、『盲人書簡』同様に、台本としては適していないと思われる。幾分、レーゼドラマとして加筆してある(ト書など)が、台本はあくまでも文学であるにとどまり、演劇そのものではない。私たち天井桟敷の演劇は、こうした文学的脈絡から、諸関係を解放することを一つの目標としているのだということをつけ加えておきたい。」
”解放”・・・まさに、空にする、空洞・・・山雷頤への飽くなき欲求、という身勝手な観点を差し挟みますと、難解な展開も、自然と「空洞」の名のもとに上手く収斂されて行くように思いました。この戯曲の山雷頤は、果たしてどんな展開を、主題を”養ふ”のか、に着目しようと思いました。
では、いつになく長めになってしまい、中途で果ててしまう方がいらっしゃる事実を横目に観ながら、いつになく身勝手に、戯曲内一つ一つの場面を勝手に”周易化”したいと思います。
元々、寺山修司の戯曲は、起承転結、序破急のリズム、論理から外れる所が前提の戯曲なので、最小限のストーリーは申し訳程度に立ち尽くしているだけで、基本的に一つ一つの場面は断絶しているので、こちらのnoteから『地球空洞説』のストーリーを把握する事は不可能と前以て断じておきます。どうしても起承転結を知りたい!という方は、お手数ですが、実際の平凡社ライブラリー『寺山修司幻想劇集』に触れて頂けたらと思います。
■134〜135ページより引用
突然、ジンタが高鳴って天幕がめくられると、颯爽とあらわれてくる天井桟敷の人々! 曲馬団の女団長、せむし男、赤こうもり、怪人赤マント、下足番台の大候ら奇人怪人の面々ばかり。
大候 さあさあ、天井桟敷、久々の演し物「地球空洞説」のはじまりだよ。(太鼓)信じようと信じまいと、これは恐ろしい科学の大陰謀!
―中略―
(太鼓)そう、学者は言ったものだ。地球は中心ほど重い物質からできていて、いくつもの層から成り立っているって。(太鼓)だが、それは真っ赤な嘘だったんだ。でたらめだったんだ。(杖で地面を叩いて)この中味は、がらがらのがらんどう。何もありゃしないんだ。
―中略―
一九二〇年にはマーシャル・ガードナー研究所長がこれを承認しました。いまでは地球の中心は何もない、ということは悪魔の常識! 実話! 真相!いいかね、これは中味がつまっているように見えても、実際は空っぽだったという、皆さんの頭の話じゃない、たとえ話じゃないよ。正真正銘のがらんどう、魂の真空管、人を引きずりこむ無の大引力の報告だ。
⇧ まさに、山雷頤そのものを語っているような気がして、私にはなりません。
■136〜137ページより引用
大侯 (太鼓)で、何でこんなところにやってきたの?
女学生1 ウサギを追っかけて
女学生2 そう、ウサギが穴に落ちるのを、狙って。
女学生1 あたしたち「ふしぎの国のアリス」友の会なの。
―中略―
女学生2 アリスが本を読んでいたら、ウサギが走っていって穴に落ちたでしょう? その穴へ入っていったらアリスのふしぎの国があったでしょ、六千キロメートルの地下に。
―中略―
大侯 それで、その穴をさがしてウロツイてたのかい、学校も行かずに。(莫迦にして)何て、子供っぽいんだ。夢だよ、そんなことは。
女学生1 どうして、そんなこというの?
大侯 世の中は変ってるんだ。「ふしぎの国」ってのは今じゃ、チャバレーの名前だよ、五反田の駅前に行ってごらん。
―中略―
女学生2 わかってるは、そんなこと。
女学生4 (言い直して)想像ついてるわ。
女学生1 あたしたちは、有名になりたいだけなのよ。ふしぎの国の入口を見つけて。
女学生2 それをマスコミに売りこんで。
女学生4 あこがれの立身出世主義! お金ためて、地球を脱出するの。
大侯 どうやって?
女学生1 いまに大気球があがる。
女学生2 そうよ。あたしたちは大気球にのって、この世におさらばするのよ。
―中略―
女学生3、大侯めがけていきなり口から火を吹く。腰を抜かす大侯!四人の女学生、暗闇に消える。
※原文ママ
⇧ 上記の場面は、山雷頤の五爻のみ陽と化した卦
風雷益(ふうらいえき)の四爻
☴
☳
が、ふさわしいように思います。
”象に曰く、公に告げて従はるとは、益さんとするの志あるを以てなり。”
自分(内卦=☳)は、思いのままに動き、相手(外卦=☴)はそんな自分を賁広めてくれようと奮闘する・・・互いのメリットを享受出来る、という意味合いの強い卦です。
その卦の四爻は、外卦である巽の主爻…まさに、ふしぎの国の入り口を、マスコミ、世界に情報の形で届けようとする女学生達の、可愛らしい名誉欲から派生した情熱を縁取っている卦として、この場面に一番ふさわしい卦爻と言えるのではないでしょうか。
■139〜140ページより引用
銭湯帰りの男 いつものように、帰ってきた。そうしたら、アパートに俺の部屋がないんだ。
大侯 アパートに部屋がなくなっていた。部屋が消えたのだ。
銭湯帰りの男 俺は、アパートを間違えたのかと思った。だが、そこはたしかに俺のアパートだった。高円寺南五―十の一新庄アパートだった。
―中略―
大侯 ようやく事件らしくなった。さて、この銭湯帰りの男の謎をとくのは一体誰か?
―中略―
銭湯帰りの男 俺は迷路にまよいこんでしまったのだ。
大侯 しかし、銭湯からここまでは、まがりくねった道じゃない。(指さして)内藤一水社のところを左へ折れれば、あとは道なりの一本線だ。迷路なんてことはないだろう。
銭湯帰りの男 あんたはモノを知らないね。
大侯 ・・・・・・
銭湯帰りの男 俺はギリシアの迷路を知ってるが、それはただの一直線だった。
大侯 ・・・・・・
銭湯帰りの男 だが、直線の迷路が、一ばん厄介なのだ。どんな名探偵だって、必ず迷う。哲学者だって出口を探すことができなくなってしまうんだ。
⇧ 上記の卦、一直線の迷路が一番厄介だと説く銭湯帰りの男。
この数々のセリフは、
地雷復(ちらいふく)の三爻
☷
☳
”象に曰く、頻に復(かえ)るのあやうきとは、義として咎なきなり。”
大地(☷)の下から微かな動き(☳)が伝わって来る。今、まさに地上から埋もれた種が顔を覗かせようとしている、はじまりの様子を表した卦です。三爻も、初爻の陽から勢い良くスタートしたに違いありません。陰なので、自分をスンナリ受け入れてくれて、すぐに辿り着けると思っていた。しかし、三爻は、辺り一面が陰になり始めて、楽勝と思っていた細かな陰の数々が紡ぐ闇が、思いのほか、濃かった・・・・地雷復の隠れた難解さを、銭湯帰りの男が披露しているように思えてなりません。
■142〜144ージより引用
ふいに公衆便所の中から、キャーッという悲鳴と共に女学生2がとび出してくる。入ろうとした銭湯帰りの男とぶつかって、わっとしがみつく。
銭湯帰りの男 どうしたんですか?
女学生2 覗いてたのよ、へんな男が!
銭湯帰りの男 何を?
女学生2 何をって、わかってるじゃない。あたしがしゃがんで用を足し終わってヒョイと下を見たら、真暗な穴の中に目が二つ?
銭湯帰りの男 目が二つ?
女学生2 そうなの、いつもの顔なの。そしてお尻を拭こうとしているあたしを見上げてきくのよ。赤い紙がいいですか? 青い紙がいいですか? って。
―中略―
銭湯帰りの男、入ってゆくと、うしろの繁みがゴソゴソ動いて、中から一見変態風の男、あらわれてくる。おなじみ、名探偵の金田一耕助である。
―中略―
大侯 金田一さん、こんどはどんな事件が起きたのでしょうか?
金田一 まだ何も起きていないのだ。
大侯 何も起きていないのに、どうしてあんなところにかくれていたんです?
金田一 ここが「くさい」と睨んだからだ。
大侯 便所だもの。あたりまえですよ。
金田一 くさい、と睨んだら目を離しちゃいけない、これが探偵の鉄則だ。おれは、青い紙と赤い紙を一束ずつもって、じっと便所の下にかくれている。
―中略ー
金田一 女学生が青い紙といったら青い紙を便器の中からニューッと出してやる。だが、赤い紙といったらだめだ。そいつはすぐに逮捕だ。
大侯 逮捕!
金田一 そいつが犯人なのだ。
大侯 一体何の事件の?
金田一 それは逮捕してから調べるんだ。いまや推理は事件を追いこした。進歩ってやつだよ、きみ。犯人の方だって、捕まれば必ず悪事を働くんだ。墓を作ってしまえば仕方ないから、死ぬ。消防自動車がくれば仕方ないから、放火する。バク弾を作ってしまえば仕方ないから暴動を起すんだ。
※原文ママ
⇧ こちらの場面ですが、周易を少しでも嗜んだ事のある方なら、雷のように直感出来る筈です。まさに、
風地観(ふうちかん)の二爻
☴
☷
そのものを表した卦のように思えてなりません。
”象に曰く、闚(うかが)ひ観る。女の貞とは、亦(また)醜(は)づべきなり。”
大地(☷)の上を風(☴)が吹き渡って行く様子を仰ぎ見ている、という意味合いの卦です。
はなはだ不謹慎ではありますが、”仰ぎ見る”一点においても、風地観そのものを表した卦であるように思います。
何故に二爻としたのかと申しますと、初爻ですと、下過ぎて”及ばない”。二爻の陰ですと、五爻の陽と応じる、つまり、見つかってしまう、という解釈が成り立つように思います。また、隙間から覗き見る、という爻辞もあります。また、外卦の巽は、五行ですと、木行、木行は、青も表現します。まさに青い紙。女学生が無実、という事も付け加えさせて頂きます。また、二爻と応じる五爻を金田一だとすると、「逮捕してから事件を調べる」つまり、風(☴)の渦中で陽の熱にうかされている彼を思わずにはいられません。
■146ページ〜147ページより引用
※突然、高鳴るジンタに乗せて踊り出て来た曲馬団の女団長と、その配下の歌右衛門、孝行の鼎談
女団長 何か、不自由なことでもあったの?
歌右衛門 いや、私はガリレオの本を読んでいるあいだに、一大発見をしたのです。それは、あらゆる真理は二十センチの距離によって保たれている。つまり、地球の引力も二十センチ、アインシュタインの相対性原理も二十センチだということなのです。
ー中略ー
孝行 ぼくなら、もう少し真理に近づけるよ、近眼だから。
歌右衛門 思想とは何とはかないのでしょう。どんなに努力しても、ぼくはこの距離をちぢめることができない。二十センチ間隔のマール・カルクス。二十センチ間隔のドストエフスキー。二十センチ間隔の宇宙の法則。
⇧ 上記の場面は、同じ風地観でも、初爻を表すように思います。
”象に曰く、初六の童観は、小人の道なり。”
歌右衛門の、思想への距離に対する嘆きは、そのまま風地観の初爻のように思います。初爻は、”中に及んでいない”。また、初爻の応爻の四爻も陰で、陰陽が通じていない。しかも、四爻は巽の主爻。巽は風。真理は、風のようにはかなく移り気で、その下で小人は立ち尽くす(☷)しかない・・・。
■150ページ〜151ページより引用。
見世物小屋の入口の手回しポータブルがまわり、古いシャンソン「回転木馬」が流れ出す。
入り口で、泣きべそをかいている空気女をしきりになだめ、ねぐさめている腹話術師。空気入れのチューブを出してきて、空気女をふくらましてやる。暦売りが、日付を貼ってまわる。
腹話術師 俺だけなんだよ。こうやって、いつもお前の事を心配してやってるのは・・・・・・
空気女 ウン。
腹話術師 他の男は、ただ、おまえをからかって、面白がってるだけなんだ。陰へまわると、赤い舌を出している。
空気女 ウン。
腹話術師 (ペダルを踏みながら)さ、だんだんふくらんできたよ。気持ちいいかい?
空気女 ウン。
⇧ 当戯曲は、寺山修司らしい破天荒な場面の応酬が繰り出されながらも、この腹話術師と、彼にふくらませられなければ生きられない空気女との、恋愛にも似た関係性が主軸の一つとなり得ています。
上記の場面に一番ふさわしいと思われる卦爻は、
山沢損(さんたくそん)の六四
☶
☱
”象に曰く、其の疾を損すとは、亦喜ぶべきなり”
山(☶)の土を削って、そこから優雅な川(☱)が流れている、という光景を表す事、から、自己を減らして他者を益す、という意味合いにも捉えられます。その犠牲に誠実さが宿っている、と。また、山沢損は、乾(☰)の中に坤(☷)が包まれている卦、とも見えます。四爻は、その坤の主爻となっています。腹話術師は、自身の肺(乾=金行=肺)を犠牲にして、空気女をふくらませている。しかし、その繰り返しで、進展は無い(☷)。その空虚さが、どこか二人のやり取りに、優雅な川の如く漂っているような気がしてならないのです。
■155〜156ページより引用
※公園のベンチに腰を下ろしていた銭湯帰りの男と、水でびしょぬれの少女・サキの会話。
指さした夜空に、ふいに幻のようにあらわれた風見鶏が、高々とまわりだす。カラカラカラカラという音が、ひびきわたる。
サキ 何もかも、あたしの見ている夢よ。あたしはいま眠っている。あたしは世界を眠っている。でも、夢の中は水びたし。あたしはほんとは濡れた女、魚になりそこなった十六歳の妊婦なのです。
手にさげたトランクが口をひらくと、中からあふれ出てくる水。それは、とどまることなく流れつづける。
―中略―
地のあちこちから、奇跡の噴水のように火が噴きあがる。その少女サキのまわりを、自転車にのって、よれよれのフロックコートの人さらい、ゆっくりとまわっている。噴きだした水にびしょぬれになりながら、少女サキ、狂ったように踊って、ぱったりと倒れる。
一瞬、すべての音が途切れ、夜空の風見鶏のまわる音だけが、カラカラカラカラと鳴り残されている。
⇧ 上記の場面は、
離為火(りいか)の三爻
☲
☲
が、ふさわしいように思います。
”象に曰く、日昃(かたむ)くの離は、何ぞ久しかるべけんや。”
水でびしょぬれ、というキーワードがあるにも関わらず、水を象徴する坎(☵)では無く、何故、相反する火の象徴、離(☲)なのか、という事ですが、初爻と上爻、二つの陽を取り除きますと、大きな坎、のような印象を受けないでしょうか。地球空洞説が、山雷頤を巡る戯曲と捉えるならば、山雷頤の箱の中で水浸しになる、という状態は、否応無しに相反する離為火、となってしまうのです。では、何故に三爻であるのか、と問われましたら、大坎の似卦の主爻だから、とも読めますが、一方で、風見鶏、カラカラカラカラ・・・・・すぐ下の二爻、風(☴)の主爻と隣り合わせ、という事です。まさに、奇蹟の噴水のように、「火」が噴きあがる!!!・・・展開の均衡が、まさに”かたむく”瞬間を捉えた卦爻と断じても過言では無いでしょう。
■161〜162ページより引用
二つ並んだ花壇の日覆いの上に、暦売りがあらわれる。サンドイッチマンのように、胸に大きな日めくりの暦をぶらさげている。
暦売り えーと、暦です。暦は、いりませんか?
もう一つの日覆いの上でうたたねしていた腹話術師の人形が(腹話術師の口をかりて)話しかける。
人形 いくらだね。
暦売り 日によります。ぜんぶ同じ値段というわけにはいきません。
人形 一年全部売るんじゃないの?
暦売り かため売りはしません。好きな日を選んで買って頂きます。
人形 それでも暦なの?
暦売り 売れない日というのもございます。(めくって)まだ、日付の決まっていない白い日もございます。わたしどもは、日付というものが人によってぜんぶ違うものだということをわかっていただかないと、商売できません。
―中略―
暦売り (中略)一日が四十時間以上ある人と、一日が一時間しかない人が同じ時計、同じ暦を使おうとするから、世の中には争いが起こるのです。(人形の指をとって)指が五本ありますが、この一本ずつだって、べつべつの暦をもった方がいいのです。わたしの指は、薬指だけが速く年老いまして、老衰してしまいました。(と、手を出して見せる。薬指は黒くぬられ、人差し指だけが指袋をはめている)
⇧ 上記の場面は、曲がりなりにも東洋占術家として暦を取り扱う者として、決して無視する事の出来ない描写のように思われましたので、採用させて頂きました。そして、令和四年三月十八日現在に起こっている世界情勢を鑑みましても、”一日が四十時間以上ある人と、一日が一時間しかない人”との擦り合わせが急務である事態に覆われていますが、それぞれがそれぞれの暦を、というニュアンスは、まさにそれぞれがオンリーワンと謳う、「世界に一つだけの花」を暦の形で先取りしていた!とは言えないでしょうか?
敢えて、上記の場面を卦で表すとしましたら、やはり、上昇する火と下降する止水が噛み合わず、背き合う
火沢暌(かたくけい)
☲
☱
が、妥当のように思います。
■168〜169ページより引用
※白いパナマ帽をかぶった探検隊長と空洞学者との会話。
空洞学者 地球の空洞へ入ってゆくのは、南北の極地からが一ばん近道だ、ということは常識になっている。そこには直径二、三キロの穴があいているのだ。穴を発見し、地球内部の旅に行って、そのまま中に棲みついてしまった探検家が何人もいるのだ。
―中略―
きみには、理解できないだろうが、地球の中の大空洞のまん中には、もう一つの太陽がある。あかるさも、温度も地表と全く同じなのだ。
―中略―
隊長 ということは、この真下、地表の裏側に、もう一つの杉並区があり、もう一つの高円寺があり、もう一人の私、もう一人の先生がいるということでありますか?
空洞学者 同じ風景はあるだろう。だが、そこには人間は誰もいない。
―中略―
空洞学者 誰もいないのだ。誰もいなくとも、日は昇り、日は沈むのだ。そして、無の引力が、わたしを空洞の世界に引きつけてやまないのだ。
無の引力! 無の引力! わたしはひきつけられる。何もないものに。内容のない思想に。だれものっていない最終バスに。(中略)
⇧ 戯曲も終盤に来て、
山雷頤
☶
☳
を今一度捉え直す、空洞学者をぶちこむ所に、物語の破綻が寸前で絶妙に食い止められているように思います。
■170〜172ページより引用
屋根の上で、「アリス友の会」の三人の女学生、唄いはじめる。
―中略―
見物人の中から切り抜かれた数字を背負った暦売りがあらわれて、他の見物人たちに語りかける。
暦売り 三人で一日の暦はいかが?
女学生2 三人一緒の?
暦売り 三人だけの朝がきたり、三人だけの夜がきたりする暦。
―中略―
三人で、暦売りを軽蔑したように笑う。
女学生1 大体、こんな暦、(と、暦売りから奪いとる)軽い、軽い。
暦売り (真剣に)何するんですか! (と、怒って取り戻そうとする)
女学生2 (立ち上がって、それを一枚ずつ剥ぎとりながら)皆さん、一日を大切にしましょう。月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、(と言いながら、まき散らしはじめる)
暦売り (取り戻そうとするが、女学生1に妨げられて、手をのばしてもとどかず)コラッ! そんなに早く一日をめくると、早く年老るぞ! こらっ! 止めんか! 秋が来てしまう! 冬になってしまう!
女学生2 (哄笑しながら、まき散らしつづける)月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、気球はあがれ、地上は亡びろ、日曜日、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日・・・
⇧ 上記、またしても暦を巡る見解が描かれていますが、こちらを卦爻で表しますと
山沢損の三爻
☶
☱
が、ふさわしいように思います。
世間の謳う暦に風雷益の卦と共に取りつかれ、有名になりたいと唄っていた彼女達は、その暦を破り捨てて行く事で、山沢損に転じる。
何故に、三爻なのか、といいますと、爻辞に・・・
”三人行くときは、即ち一人を損す。一人行くときは、即ち其の友を得(える)。”
・・・三人で、暦売りを軽蔑したように笑う、とありますが、セリフを発しているのは、女学生1と女学生2・・・
女学生3は、果たして本当に暦売りを軽蔑していたのでしょうか。陰で、その暦を拾って、東洋占術の礎としてそれを大切に抱き止めていてくれたら良いのですが・・・それとも、未だに風雷益の謳うメリットに酔い知れて、それを密かに一人売ろうとしているのでしょうか・・・
■185ページから引用
―中略―
見世物小屋の天幕の中から、夢遊病のようにふらふらと出てくるサキ
―中略―
銭湯帰りの男 俺も眠りたいよ。夢だといいんだがな。
サキ (強く)だめよ! 夢の主役は、眠ってる人だけなんだから。(突然、殺虫剤をとり出して、あたり一面まき散らし)あたしは東京都杉並区高円寺を眠ってしまいました。夢の中を―消毒しまーす。シュッ、シュッ。
⇧ 上記にふさわしい卦爻は、
風山漸(ふうざんぜん)の四爻
☴
☶
”象に曰く、或は其の桷(かく)を得(うる)とは、順にして以て巽なればなり。”
山(☶)の上に木(☴)が静かに育って行く、という意味合いの卦です。
殺虫剤を片手に常軌を逸したようなサキの行動から見たら一見全く噛み合わない卦のように思えますが、
サキは、自分を夢の高み(☶)に置いて、風(☴)そのものになって、風をまき散らす、という風にも読めます。
・・・と、いつになく膨大に渡ってしまった、『地球空洞説』の戯曲易の珍道を終えたいと思います。山雷頤を巡る旅のように思いたかったので、全て、初爻と上爻が陽爻の卦で統一したかったというのがあるのですが、そこは寺山修司、一筋縄では行かせてくれず、そんな他愛無い整合性等すぐに吹き飛ばしてくれるような、陰な爽快感に包まれながらタイプし続けました。
数々繰り出される密度の濃過ぎて、周易の六十四卦の”不易、変易”を何度も繰り返したようなキャラクターと向き合い、打ちのめされ、口を、まさに山雷頤
☶
☳
の如く大きく開けながら戯曲を読み進めました。
マスクが早く外れて欲しいと願いつつ・・・。
今後は、もう少し、ポップな戯曲にしようかと若干の反省を踏まえつつ💦
私の戯曲、そして周易に関する見解が僅かでもより深みを伴う事があれば、またいつか、寺山氏の戯曲に挑んで行きたいと思います!
最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました!
このnoteを通して、少しでも、寺山修司に、演劇に、戯曲に、そして、周易や東洋占術に関心を寄せて頂けましたら、とても幸甚です!
ご意見、ご指摘、ご要望、いつでもお待ち申し上げます。
最後に、東洋占術を曲がりなりにも嗜む私の私自身に対する矜持を、腹話術師のセリフに乗せて風の如くお伝えさせて頂き、本当に終わりにしたいと思います。
■151ページより引用
腹話術師 みんなは、お前のことをクズだという。クズだっていいんだ、どうせクズなら、日本一のクズになればいい。みんなは、お前のことをゴミだという。ゴミだっていい。どうせゴミなら、杉並のゴミじゃなくて、世界一のゴミになるんだ。にんげんには、向上心が一ばん大切なんだからね。
令和四年 三月十九日
副汐 健宇
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?