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副汐健宇の戯曲易珍道中①〜山田太一『日本の面影』

おはようございますこんにちはこんばんは。

曲がりなりにも東洋占術家を名乗っている、副汐 健宇です。

唐突ですが、こちらのnoteにて、不定期連載を始めさせて頂きます。

私の偏愛する僅かな戯曲、あるいはドラマ、映画の脚本を身勝手に取り上げさせて頂き、そこから、どんな周易の六十四卦を見出せるか、という事をテーマに、これまた身勝手に、”戯曲易”という名前をつけて、検討して行くという事をやって参りたいと思います。

周易を嗜む方、学んでいらっしゃる方が良く易の先生に言われる事として、日常のあらゆるシチュエーションを、易の六十四卦に見立てる訓練をする事を推奨されますが、私は致命的に、絶望的にその資質が欠けていて、せいぜい、突然訪れた出来事を、穏やかな土地に一陣の風が吹く、という意味合いの、天風姤(てんぷうこう)に当てはめる事、しか出来ません・・・。

なので、日常では無く、観劇が趣味の私ならではの、戯曲の場面から周易を当てはめる、というやり方ではありますが、自分自身が、もっと、まずは”筮前の審事”に寄り添い過ぎずとも、あらゆる状況下から、六十四卦を瞬時に汲み取る事の訓練、という意味合いで、(完全私の身勝手な趣味の領域ではありますが、)読み進めて頂けたら幸いです。

私の鑑定や占いに触れて頂きたい想いで書く公式ホームページのブログと近い、こちらのnoteでは、敢えて、徹底して、東洋占術の力をお借りして、美しいマスターベーションをさせて頂けたら、と思っております。


記念すべき(?)第1回に取り上げさせて頂く脚本は、

1984年3月3日〜1984年3月24日の、全4回に渡ってNHKにて放送された、


山田太一著:『日本の面影』日本放送出版協会

について取り上げさせて頂きます。

「どうせ私(僕)なんか・・・」という観念、卑屈、悲観、もしくは卑屈な人の葛藤を、芸術の域まで高めた実に稀有な作家、と個人的に慕っている(この事に関しては別で取り上げさせて頂きたいくらいです。)山田太一氏の作品を第1回目に取り上げるのは、とても私の中で、

          ”水火既済”

            ☵

            ☲


まさに、収まる所にしっくり収まる想いなのです。

本作は、実在した、随筆家、紀行文作家である、

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、

※ハーン役はジョージ・チャキリス氏

自身のそれまで生きて来た合理主義満載の西洋文化に絶望し、怪談等の非合理が存分に根付いていた古来の日本の文化に憧れ、東洋に傾倒し、しかし、西洋思想に舵を切ろうとしている日本の空気に再び絶望し、再び西洋に戻ろうとしますが、日本人妻の小泉セツ、そして息子の一雄(カズオ=ラフカディオの、カディオをもじってつけた説が有力)の存在に救いを感じ、イギリスから日本に自身の国籍を移し、小泉八雲に改名を遂げ、非合理と西洋文化が融合した日本を、セツの家系を守る事を通して生き続けた過程が丁寧に描かれた佳作です。

ファーストシーンのニューオリンズから日本の松江、熊本、神戸・・・と、西洋と東洋の狭間に翻弄されたハーンの葛藤、揺れ動きがとても細密に描かれています。

また、時にセツの語りを通して差し挟まれる、「雪女」や「耳なし芳一」のエピソードも、ハーンが非合理に夢中を見出す象徴として効果的に盛り込まれています。

(実は、実際のドラマを未だ拝見した事は無く、脚本のみで偏愛している作品なのですが・・・小林薫氏演じる耳なし芳一をいつか見てみたい!)

山田太一氏といえば、『ふぞろいの林檎たち』や『想い出づくり』(共にTBS)など、「選ばれない者と勝手にされてしまった者達」の群像劇が有名です。それにしては本作は異色で、『日本の面影』という題名にも、どこか素っ気なさを感じたのですが、逆に、その素っ気なさに否応無しに惹かれ、いつか脚本を読んでみたいと切望していました。

とあるシーンを身勝手に抜き出して、そのシーンに、六十四卦を身勝手に当てはめさせて頂きます。改めて私自身の、易に対する、人生全般に対する浅学非才、軽薄さが露わになる事は覚悟の上で、第一回目という事もあり、実際に走らせながら修正して行く、というスタンスなので、どうか、お手柔らかにお願い致します。


座談会「百年目の今・・・」

山田太一(脚本家)、中村克史(NHKドラマ部)、音成正人(NHKドラマ部)


239ページより引用

山田「(省略)たとえば行いが悪かったからここで事故が起きたとか、お参り、お祓いをしなかったから火事が起こったとか、自分の内的なものにしてしまう精神は、意識するしないは別にして、物質優位の時代に対するものすごい抵抗精神でもあると思うんです。(省略)占いなどは幻想だと思うけれども、幻想だからいかんとは言えないわけですね。そういうことをいえば、ぼくらの持っている意識の大半は幻想ですから、占いも五十歩百歩ですよね。ぼくらも占い好きの人も両方とも幻想を抱えていることについてはたいして変わりはないと思うんです。」


上記は、山田氏と、本作のプロデューサーの方々との鼎談形式で、あとがきの代わりに行われたものですが、占いを曲りなりにも嗜んでいる私にとりましては、実に興味深い内容となっています。

山田氏自身は、占いの類を一切信じていらっしゃらない心理が窺えますが、だからといってそれを断じるのでは無く、世界には、人間には理屈や化学では抱えきれないものがある、という事の証明として、幻想に過ぎないであろう占いや怪談等に、たまに寄り添ってみても良いのでは無いか・・・。

240ページより引用

山田「(省略)今はエゴとエゴがぶつかったようなドラマが多くて、ちょっと善意の人が出てくると、これはきっと裏があるに相違ないと思ったりします。私はこのドラマで、物欲は信ずる、合理的なものだけを信ずる、というような人たちに、得体の知れない幽霊のおもしろさを感じていただければ・・・と思いますね。それに幽霊が存在するかもわからないと思えてくるようなドラマを見ていただくことは心楽しいことではないでしょうか。」

前置きが相変わらず長くなってしまいましたが・・・ようやく本編に入ります。

第三回「夜光るもの」より

149ページより引用

ハーンが英語教師として赴任した熊本第五高等中学校の英語科主任・佐久間信恭先生とハーンの会話より

※佐久間先生役は、伊丹十三氏

佐久間「(省略)これからの日本はああた、素朴だの純朴だのといっちゃあおられません。否応なしに、私のごとく、西洋かぶれの軽佻浮薄な人間にならにゃあならん道を歩くのです」(原文ママ)



第四回「生と死の断章」より

175〜176ページより引用

同じく、佐久間先生とハーンの会話

ハーン「単純、温和、親切、丁寧、子供のように疑いのない信仰、それらを失って、日本は、どんどん平凡な、どこにでもいるような、つまらない民族になろうとしています」

佐久間「やむを得ませんな。西欧の強い国家に追いつくには、そうそう単純で温和というわけにはいきません」

―省略―

ハーン「学生はどんどん利己的になっています」

佐久間「産業国家は多かれ少なかれ、そういた傾向の人物を生まざるを得んのです」

ハーン「鈍感で、空威張りばかりします」

佐久間「空威張りぐらいしなけりゃあ、小さな日本、胸の張りようがありません」

ハーン「なにごとも、軽薄に疑って、人の善意も無茶苦茶にしてしまう」

佐久間「疑いがなければ進歩はありません」

ハーン「外人教師は、西洋で食いつめた人間だと軽蔑するのが進歩ですか?」

―省略―

ハーン「西洋で落伍した人間は、駄目な人間でしょうか? 私は、今の西洋から落伍した人間の中にこそ、素晴らしいものがあると思う」

佐久間「(省略)多少人間がカサカサしてきても、今さら日本は、ひき返すことはできんのです。近代国家として力をつけ、列強の植民地になることをはね返して行かねばならんのです(省略)」

ハーンの声「服部さん。日本は、見る見る微笑を忘れて行くようです」

ハーンの声「鈍感で、野卑で、傲慢で、利己的で、疑い深く、明治以前の老人を軽蔑し―」

ハーンの声「まるで、ひからびたレモンのように、苦くて空虚になって行くようです」


私は、上記の会話に、周易の六十四卦

     地水師の初爻、を見出しました。

      (ちすいし)

            ☷

            ☵

地上(坤=☷)の水(坎=☵)が枯れている、不作の状態、という意味合いがあり、不作の状態・・・水争いが起こる、という暗示のある卦です。

一陽五陰卦、一つの陽が五つの陰と対している、忙し過ぎる、という意味合いもあります。また、”易は少数なり”の原理から、本卦は、陽の方がクローズアップされていて、陽・・・つまり、メジャー、大衆、という意味もあります。

内卦は自身、外卦は相手・・・内卦をハーン、外卦を佐久間先生としますと、ハーンは、未来の日本を憂い(☵)、一方で、佐久間先生は未来をそのまま受け入れる(☷)という見方も出来るでしょう。
佐久間先生は、高圧的にハーンに対しているように見えますが、個人的私見を一切挟まず、これからの世界情勢がこうなるからこうするのだ、と、そのままの流れを受け入れているだけ、という点で、やはり坤☷が妥当のように思えます。

また、地水師の初爻を彩る言葉、つまり、爻辞は、

「師(いくさ)出(い)ずるに律を以てす、律を失えば凶なり。」

と、あります。

世界へ渡って行く為には、本能のまま、あるがまま、という訳には行かず、しっかり規律や基軸を固めてから、土台をしっかり構築してから、という戒めの爻辞となっています。

ハーンの想う律と佐久間先生の想う律は大幅にズレている。その意味で、争いのような、山田氏のおっしゃるような「エゴとエゴのぶつかりあい」のような形式にはなっているものの、初爻とそれに応じる四爻は共に陰、という事で、エゴから一歩引いて、冷静に俯瞰して共に世界を、大衆を思いながらの議論という事で、激しい対立では無く、ある種の静かな冷戦、と身勝手に感じた次第です。
また、佐久間先生から“カサカサした”というワードが出て来ましたが、地水師には、血の巡りが悪い、というキーワードも色濃くあるのです。
(土剋水=水が濁る、という意味合いからと思われる。)
なので、そういった観点からも、地水師、を身勝手ながら見出した次第です。


第一回「ニューオリンズから」より

『古事記』のイザナギとイザナミのエピソードを聞いたハーンと、文部省学務局長・服部一三の部下、西村との会話

ハーン「ギリシャにも神話がある」

西村「(英語で)聞いてます」

ハーン「オルペウスとエウリュディーケーの物語だ」

西村「(英語で)はい」

ハーン「私は、ギリシャ神話を世界一だと思っていた」

西村「(うなずく)」

ハーン「しかし、この話に限ってはイザナギの方が素晴らしい。もっと知りたい。日本の話を、もっとたくさん知りたいものだ」

史実に基づいたシーンだとすれば、日本人の私としては実に誇らしく読めたシーンではありますが、ハーンが2021年の日本を見たらどう思うだろうと・・・説教臭いオヤジ的な想いがふと脳裏をよぎってしまいました。しかし、ここまで日本に魅力を感じたハーンの存在を、今の日本から眺めても、本当に誇りでは無いでしょうか。

第二回「神々の国の首都」より

73ページより引用

ハーン「私は、なぜ生きているのか? 分からないことばかりだ。なぜ感じたり考えたりできるのか? 人間には、どうにもならないものがいっぱいある。人間は無力だよ。世界の中心になどいない。少なくとも、そういう恐れを抱く必要はないかね? でなければ、人間は途方もなく傲慢になってしまわないか? 自分がここにいるのは、目に見えない大いなるもののおかげかもしれないとは思わないかね?」

現在では、こういったセリフは、スピリチュアルに傾倒している、と毛嫌いされ一蹴される可能性は高いように思いますが、スピリチュアル、というあやふやな言語に隠された、科学では断じきれない非合理の存在は、やはり認めても良いのだ、と、占いを嗜む私には救いに思えたセリフでした。

第四回「生と死の断章」より

196ページより引用

教室で学生達に講義をするハーン

学生たち、じっと聞いている。

ハーン「君たちは、独立自尊をよく口にする。しかし人は果たして自分ひとりで、よく独立を保てるだろうか? 沼に沈まんとする人間が、自分の髪をひっぱって、沈む事を止め得るであろうか? 西田さんは、よき自立は、よき相互依存によらなければならないことを教えてくれました。よき友人を持つことの大切さを教えてくれました」

上記は、まさに、東洋占術の基盤となり得ている、陰陽の考えそのものでは無いですか!と発奮した次第です。陽だけでも、陰だけでも世界は成立しない。陽VS陰でも成立しきれない。陽は陰を内包し、陰は陽を内包する、まさに、相互依存を上手く利用出来る関係性のみが、太極に近づく理想に有効なのだ、と言われているようです。


208ページより引用

大学を一方的に解雇されてしまったハーンと妻セツの会話

ハーン「日本ハ、モウ、私ノヨウナ人間ヲ、イラナイノデス」

セツ「そんな、情けないことを」

ハーン「単純、温和、丁寧、親切、ホホエミ、幽霊。ソンナモノヲ愛スル人間ハ、イラナイノデス」

ハーン「(日本語で)日本ハ、機械ト科学ノ道ヲ行キ、(英語で)傲慢で利己的で、固くて乾いた魂しか持たない人間でいっぱいになるでしょう」

ハーンは、非合理に包まれた日本を生きて、いつの間にか占いの技術を、机上では無く体感そのもので会得したと思えてなりません。まさに、今の日本は・・・と、またしても説教じみたオヤジ的自分が顔を覗かせてしまいますが、このハーンの予言は、幸か不幸か、首肯せざるを得ないように思います。


209ページより引用

ハーン、狭心症により死去

雑司ヶ谷共同墓地で、ハーンの眠る墓に花と線香をたむける服部。

※服部一三役は、津川雅彦氏

服部の声「蛍や蝉や、小さなものの不合理な思い、幽霊、老人、蛙やむじな、正直、親切―ハーンのいうとおり、たしかに、日本の近代は、そうしたものを片隅に追いやることで、発展したともいえるかもしれません。得たものも大きかったが、失ったものも、また計り知れぬ大きさなのでしょう」

陰が増えれば陽が減り、陽が増えれば陰が減る・・・こうした得たものと失ったもののエピソードに触れる度に、お手軽に陰陽に結び付けてしまう自身の浅はかさを感じる次第ですが、事実として、陽を余りにも追い求めた結果としての、陰に似た黒い歴史も、戦争を含めあったのではないか、と思わずにはいられません。


と、駆け足になってしまいましたが、以上となります。

今回は、一つのシーンにしか六十四卦を当てはめる事が出来ませんでしたが、今後は、一つの戯曲のあらゆる箇所に六十四卦を当てはめ、東洋占術家や、易者を目指す方々の、僅かでもの足しになって行ければと思います。
やはり、六十四卦どころか、基本の八卦一つ一つの読み込みがまだまだ浅い自身に直面してしまいました。また、今回はほとんど感想文のようになってしまいました。反省し、もっともっとブラッシュアップしたノートをお届けさせて頂きたいと改めて決意した次第です。

滞りがちになってしまいました私のnoteですが、こちらの戯曲易、は不定期にはなってしまっても、コンスタントに、そして良い意味で奔放に行って参りたく思います。今後とも、宜しくお願い致します!

               令和三年十月二十七日

                    副汐 健宇  

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