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noterにファンは要るのかな

うちの祖父(以下、爺さん)は大の応援好きだった

うちの大おじが議員だったこともあり
後援会の役員や自治会の役員など、自ら挙手し
家のことは二の次
祖母と頻繁にケンカへ突入した

誰かを応援するとは多少の自己犠牲ありき
爺さんを見ていた感想で
お金を全く使わず、SNSにイイネするだけで
応援やファンだと言えるのか、考えてみる


議員でも、アーティストでも
名を馳せた人物であるなら
応援に自己犠牲は不要だろう

1人ぐらい選挙やライブに来なくても
大した影響はない
しかし初出馬の候補や駆け出しのクリエイターならお金や労力を使って貰わないと存続に関わる

爺さんの話に戻ると
昔の自治会は、盆踊りや秋祭りなど行事が詰まり
爺さんは計画から準備までホイホイ飛んでいき
うちから家財道具を持ち出して、祖母に激怒された

うちにある物なので、お金はかかってないにせよ
自己犠牲かなと思ってみたりする
でも、お金は使っていない

住宅地のどこかで修理が必要だと聞くと
嬉し気にわたしを連れて
バカみたいに大工道具を車に積み
よそのお宅へ伺う
無料で建て付けや水道などを直し
ヘラヘラしながら家に帰り、祖母に怒られた

爺さんが誰かのためになることで
自分が応援している人の株が上がればと考えたなら
「爺さん、推し活の鑑だな」
今なら素直に思う

人を応援するとは
箱根駅伝で旗降りするのが応援なのか
熱狂的に身を捧げてしまうのが応援なのか
定義が難しいところだが
わたしはyoutuberに1円も落としてない
でも自称ファンだったりする

小中学生の頃から、岡村靖幸が好きだった
渡辺美里の楽曲提供をしていた時代から注視し
CDシングルやアルバムは雑誌やラジオの情報から
即座に予約し、購入していた

岡村靖幸のサイン入りライブパンフレットなど
テレビ番組がプレゼントの募集をすると
勉強そっちのけで大量のハガキを書いて出す

彼が違法薬物で逮捕されたときは
CDは持っていたのに、また買い漁る

「わたしが頑張らないと岡村ちゃんは
アーティストじゃなくなる」

買って応援しないと
少しでもわたしが買わなかったら
岡村ちゃんは再出発できなくなる
わたしが支えなかったら
岡村ちゃんはもう見ることができない

岡村ちゃんがおクスリ使うぐらい苦しんで生んだ
曲をわたしが支えないで誰が支えるの

という気持ちで全国のファンが支えたのか
今も岡村ちゃんは第一線で活躍している


応援をnoteに置き換えたら
有料記事を見送り、サポートしなくても
好きでいてくれることの潜勢力を無視できない
「あの人の記事が出たら必ず読む」は
お金を落とすなどに縛られない
スキやコメント、viewに貢献し
感想文を書いて応援してくれるなど侮れない

しかし
お金を落とさない応援や声に出さない応援は
書き手からブロックされるなど 
狭量が見え隠れして、つまらない

うちの爺さんみたいに熱心な応援をしたのは
国政選挙で、議員は議員でも国会議員だからで
爺さん自身が応援の看板を背負っていた

そして大おじも、爺さんの他界の折は
「よくやってくれた」と泣いた

noteは誰かを応援したところで
「見返りは求めるな」「人に期待するな」
「距離感が近い」など難癖つけて
拙筆の一般人が何か勘違いしている

ファンは報われることがあるのだろうか

わたしはファンを大事にするのに
肝心のファンがいないんだよ
ねぇ、爺さん
どう思う?

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