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知りたくないのは、もう一人の自分

小学6年のとき、担任と個人面談があった
担任はわたしへ
「人に流されやすいから気をつけて」
生活態度や成績などに触れた話をしなかった
とても短い個人面談だった

わたしの気持ちはBluetoothのように
他人の心の機微を拾いやすい
楽しい嬉しいばかりなら、いつも気楽で
ネガティブまで拾って、落ち込んでしまう

ときに、わたしの感情が乗っ取られて
自分の「本当にある気分」が何か分からなくなる

わたしの中では、線引きがあり
「シンパシーを感じる」「エンパシーを取り込む」
一見、似ているがまるで違う二つが作用している

シンパシーを感じる人へは、共感して
何か手を尽くそうと頑張る自分がいて
エンパシーを取り込む人には
もう一人の自分に感じ、知らない闇が見えてしまう

恋愛すると、相手から聞かれるのは
「自分のどこを好きになった?」
透明感かな、価値観かな、その場凌ぎで答えるが
明確に好きになるのは
エンパシーを取り込んだ相手

共通点が多々あっても、これじゃない
価値観が似ていても、そうじゃない
たった一つの「自分と同じ匂いがする人」

だから、相手に腹が立とうが大嫌いになろうが
わたしの目線の先には相手がいて
気づけば、相手へ対し寛容になっている

「わたしが代わりたい」「なんでもしたい」と思う

思って、伝えるだけ伝えて手を出さないのは
相手は「もう一人の自分」であるから
辛さが人を進歩させるのを知っており
代わってしまえば
相手が成長しないので、辛そうだけど遠くで見る

無関心にしていて、いつでも寄り添える自分でいる

何人と付き合った? 経験数は?
聞くのも野暮だけど
こんなものは相手を知るに足りない

知りたくないのは「もう一人の自分はいた?」
ここだと思う