歩くためだけに、散歩してるわけじゃない。
「マグロって、泳ぐのやめたら死んでしまうらしいやんか。あれ、現代人も同じやと思うんよ。」
大学からの帰り道。夕日のぼんやりとしたオレンジをバックに、自転車を押しながらケンちゃんは言った。
つい10分前の講義で教授が言っていた「人間、だいたいのことは禁止しなくても飽きて勝手にやめるが、スマホだけは禁止しないとやめられない。」という話の続きだろうとアタリをつける。
「マグロは海を泳ぎ続けんと死んでしまうやろ。同じように、俺らはネットの海を泳ぎ続けんと、もう生きられんのやないかな。」
ケンちゃんはこういうのを真面目な顔で言える奴だった。
ぼくとケンちゃんは、大学のさんぽ仲間だった。
というか、さんぽ以外の思い出はとくに無い。びっくりするほどない。一緒に旅行に行ったとか、BBQをしたとか、全然なかったと思う。(忘れてるだけだったらごめんよ)
その代わりといっては何だが、さんぽだけは狂ったようにしていた。毎日21:00を過ぎたころにどちらからともなく散歩に誘い、朝まで歩いた。さながら行脚で街を練り歩く修行僧だ。
誰もいない田舎の夜道に突如あらわれた修行僧ことぼくらは、「教授の愚痴」から「自分の葬式で流したい音楽」まで思いつく限りのすべてを話した。
あらかた会話のピークを過ぎて、頭がすっからかんになってくると、たまに自分の思考を飛び越えた言葉が出てくることがある。
人間の性格についてケンちゃんと話していた時のことだ。
「初対面での印象と、仲良くなった後の印象が同じ人って会ったことないわ。どんだけしょっぱなからオープンな人でも、仲良くなってはじめて見えるその人特有の色みたいなものがあると思うんよ。そういう"色"が見えた時、ようやくその人と仲良くなれた気がせん?」
とケンちゃん。すでに深夜3時を回っている。いい感じに頭がすっからかんになりフワフワしていたぼくは、頭ではなく脊髄で答えた。
「なんかわかるわ。"人間の性格"って、”にじみ”みたいやなって、よく思うんよ。中心にその人の原色があって、広がるにつれて薄れていくみたいな。
薄くなるだけじゃなくて、どんどん周りの"にじみ"と混ざっていって。だから他人と関われば関わるほど、自分と他人の境界線って曖昧になっていくんやないかな。」
もちろん、そんなことを思ったのは初めてだった。でも、自分で言うのもなんだけど、割といいセンいってない?
こういう思考を飛び越えた言葉は、きっと頭でウンウン考えても出てこない。たっっぷりと時間をかけて、自分の頭の中を隅から隅まで出し切ったあとで、その空っぽの奥からからドロリと溢れる、”原色絵の具”のようなものなんだ。
大学を卒業して会社に入って、ケンちゃんと話すことはなくなった。
さんぽにも行かなくなった。
ひさびさにケンちゃんと電話したとき「大学時代はよかった」としきりに言っていたのが印象的だった。ぼくも同じ気持ちだった。
twitterとyoutubeと匿名のSNSで三連休をつぶしたとき、ケンちゃんがいつか言っていた「現代人マグロ理論」を思い出した。
またヘンテコな理論について話したかった。
ぼくの原色がどんな色だったかもうよく憶えていない。
もう少しだけ暖かくなったら、ひさびさにさんぽでも行ってみようか。
春は、もうすぐそこだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?