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あなたの日常になりたい

僕はもうすぐ50歳のライターだ。

同年代の友達の「ご家庭の大変な事情」のようなことを見聞きすることが増えてきた。

お金の問題、親御さんの介護やご家族の病気、進学するお子さんとの別れなど。

僕自身の「ご家庭の事情」は30歳手前くらいでほとんど終わっている。親戚が厄介ごとを持ち込んでばかりの少年時代。前の父が僕を戸籍から抜くのを許さなかったために今の親と名字が違い、感受性の強い時期に周囲から奇異なものを見る目で見られた経験。そしてとどめに父の自己破産。

しかし並行して両親は、腐れ縁でトラブルの元だった親戚たちとの縁を切り、自己破産を機によその街に引っ越し、平穏な生活になった。二人は今も健康で楽しく生きている。僕は僕で、実家の事情から解放され、移住先の青森市で彼女とともに安らかな暮らしを続けている。

だからここ20年ばかり、僕はあまり自分自身の環境のしんどさに見舞われていない。この街でライターデビューもできたし、新聞連載も持ち、最近本も出せた。音楽ライターとしても目標にしていたこともだいたいスムースに達成し、比較的恵まれたキャリアじゃないだろうか。

そんな僕に、時々届く友達の苦境は「人生ってそんな甘いもんじゃないぞ」と教えてくれる。

そしてもう一つ教えてくれることがある。

しんどさを抱えている時、人はお前の文章なんて読んでいる余裕はない

ということだ。

物書きが自身の仕事に触れてもらうには、書いた媒体を購入したり図書館で借りたりウェブサイトに行くなり、とにかくアクセスのひと手間をかけてもらわないといけない。そして文字を読むエネルギーを持った状態でいてもらわなければならない。

ご家庭の事情でしんどい時、そんなことをする状態になれるだろうか?

おそらく僕の書いたものなんて読んでいる余裕がないのだろうな、と察せられる時、物書きが生み出すものってなんてむなしく、力のないものなんだろうと痛感する。

書いたものを読んで元気を出してください!なんて傲慢なことが言えるはずもなく、ただただ無力感に打ちひしがれる。

この「ものづくりは根本的には誰も救わない」という現実を考える際に、自分からアクセスせずとも自動的に「触れてしまう」かもしれない音楽というジャンルについても思いを馳せてしまう。

そう言えば、僕も数年間うつに苦しんでいた時、音楽を全然聴かなかったこともあった。聴くと逆に苦しくなったり。特に僕は音楽ライターなので、音楽を聴くといろいろ考えたり悩んだりしてしまいがちなのだ。

もちろん聴いて救われる人もいるんだろう。でもそれはあくまで偶然の、幸福な出合いにしかすぎなくて、「音楽は人を救う」という事実の証明ではない。

聴きたいと思っていない人の耳にもたまたま入ってしまう可能性が低くないものであるだけに、音楽に関わる人たちはそのことにはより自覚的になるべきかもしれない。

ただそれでも、毎日が苦しい人たちも日課的に楽しんでいるコンテンツもあるはずで、それらと僕の書いたものの違いは何なんだろうとも思ってしまう。

もちろん、個人的に関わりがある人間が書いているからこそいろいろ考えることが出てきてしまって逆に遠ざけてしまう、ということはあると思う。

ただそれでもやっぱり、自分の書いたものを日常的に読んでもらって、苦しい中でもほんの一瞬だけでも楽しんでもらいたいという気持ちはある。

それは僕のしょうもない「俺の書いたすごいものを読め」とか「読んで応援してほしい」とかの自己満的私欲ではなく、一人の友達として、僕にはそれくらいのことしかできないからだ。

僕は人に読む間だけのはかない楽しみを感じてもらうために全身全霊を使ってテキストを書いている。だからきっとしんどい人にもほんのつかの間、楽しんでもらえるかもと信じている。

もちろんそんなのはうぬぼれだし、傲慢だし、実際にそんなことはない。そんな余裕がない時に僕の作ったものの存在を忘れてしまうのは無理もないし、当たり前のことだ。

それでも僕は、いや、僕の書いたものは、苦しんでいる友達の日常のほんの一瞬の楽しみになりたいと願っている。

それは僕の物書きとしての、おそらく叶うことのない究極の目標だけれど、もしかしたら知らないところで誰かにとっての日常になれているかもしれない。

そんなことを思いながら、今日もひたすら文章を書くのでした。

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